%T 明・弘治十八年八月二十日勅命 %A 孝宗 %I [製作者不明] %C [製作地不明] %C 1505 %C 請求記号: 鴎A00:6270 %C 登録番号: 0004804951 %C 状態: 貴重本 %C NACSIS-CAT書誌ID: BA87193508 %C 一般注記: 和漢古書につき記述対象資料毎に書誌レコード作成鈔本 書名は箱書きによる 巻末に「弘治十八年八月二十日」とあり %C 解題: 明・弘治十八年八月二十日勅命(東京大学東京大学総合図書館所蔵鴎外文庫本) 【歴史資料として】 この史料は中国明時代における辞令書の一種である。高級官僚に対するものは誥命、下級官僚に対するものは勅命と称され、両者を総称して誥勅とも呼び慣わされる。なお本勅命の蔵書目録上の標題は箱書から採録され、「明孝宗皇帝弘治勅命」となっている。しかし発給の三ヶ月前に弘治帝(孝宗皇帝)は死去しており、実際は子の正徳帝(武宗皇帝)の命により発給されたものである。明代の中国では踰年改元といって、年の途中で皇帝が死去した場合、年が改まるのを待って改元する。このため、新帝の践祚と改元との間にはタイムラグが生ずる場合があり、本勅命の発給日はまさにこの間隙に位置している。 本勅命は、弘治18年(1505)8月20日に南京広西道監察御史王欽の父母に官職・称号を授ける辞令書である。このように官僚の配偶者や親族に官職や称号を恩典として与えることを封贈という。封とは存命の者に与える場合を、贈とは死後に与えるものを言う。この勅命では明代の規則通りに、父には子と同じ官職を、母には子の官品に対応する婦人の称号が贈られている。 誥勅は南京染織局で織られた絹織物に墨書される。この織物について明代の規程では「誥命は五色の繻子織物で、冒頭には『奉天誥命』の文字を織り込む。勅命は純白の綾(あや)織物で、冒頭には『奉天勅命』の文字を織り込む。誥勅ともに昇龍・降龍の紋様を、文字の左右に渦を巻いて囲むように織り込む。末尾には誥勅いずれも『某年月日造』と織り込み、帯は誥勅とも五色のものを用いる。」となっている。本勅命も冒頭に左右に渦巻く昇降龍の紋様と、「奉天勅命」の篆書文が織り出されているのがはっきりと視認できる。また顕微鏡による織構造の観察により当時の綾織物に間違いないことも確認された。 ただし、後世の改装を受けているため作成日の織り込みや、巻子を留める五色の帯については残存していない。この他、誥勅の末尾には発給番号や発給の際に捺された割り印が存在するはずだが、同様にこれらの部分をも欠いている。 このように首尾が完結していない部分もあるが、歴史史料としての価値を減じるものではない。なぜなら、明代中期の文書史料の実例はさほど多くなく、特に下級官僚への辞令書は残りにくいからである。つまり本勅命は明代の文書様式や、官僚制度を理解する上で大変貴重な史料なのである。 【森鴎外の旧蔵書として】 この勅命は、中国史の歴史史料としての価値以外に、文豪森鴎外の旧蔵品という文学資料としての価値をも有している。大正12年(1923)の関東大震災により東京帝国大学附属図書館(当時)も被災し、蔵書の多くが灰燼に帰すこととなった。その後の復興に際しては、内外から多くの書籍が寄贈され、これらが現在の東京大学東京大学総合図書館蔵書の基礎となっている。当時、森鴎外の旧蔵書約18,800冊(和書15,700冊・洋書3,100冊) も震災復興のために大正15年(1926)1月に寄贈されている。寄贈に際して図書目録が和洋別に編まれ、東京大学東京大学総合図書館に事務用として今に伝わる。しかし本勅命はこの時の目録には掲載が無く、整理の際に捺されたとされる蔵書印も無い。寄贈印の日付は昭和11年1月10日となっており、震災復興とはかけ離れた日付となっている。種々の経緯を総合するに、この勅命は大正15年の震災復興寄贈時ではなく、昭和11年前後に森家から追加寄贈されたものと推定できる。 残念ながら、鴎外がこの勅命を手に入れた経緯は定かではないが、想像を逞しくすれば、次のようにも考えられる。鴎外は、日清戦争、日露戦争時に中国大陸に滞在しており、晩年は帝室博物院総長(現在の国立博物館長)も務めているので、こういった一次史料を入手し得る機会もあったはずである。また鴎外は幼いころから漢文教育を施され、後年は歴史上の人物の事績に興味を抱くようになる。勅命は人物の事績を漢文で述べた生史料であるから、鴎外が興味を抱かないはずはない。つまり、森鴎外は中国の辞令書に興味を抱く学問的素地があると同時に、入手できる環境にもあったのである。 ただし、鴎外は書籍に関しても実用を旨とし高価な書籍は原則購入しなかったという。したがって、この勅命は鴎外自身の購入ではなく、第三者から贈呈されたものと考える方が妥当かもしれない。また鴎外は、購入した書籍には蔵書印を捺し、手ずから改装するほど書籍に愛着をもっていたという。しかしこの勅命には鴎外の蔵書印も無ければ、装幀に手を入れた形跡も無い。案外、書籍ではなく書画骨董の類と認識していたのかもしれない。 【参考文献】小島浩之「東京大学東京大学総合図書館所蔵鴎外文庫「明代勅命」管見」(『漢字文献情報処理研究』10, 2009.10)p.4-16 (大学院経済学研究科助手 小 島 浩 之) %T 水野家古文書(水野忠幹氏旧蔵書文書) %C 水野家古文書(水野忠幹氏旧蔵書文書)概要 本文書は、紀州徳川家の附家老であった水野家が所蔵していた古文書類で、太政官牒二紙、複数の古文書を表装した巻子三軸からなる。 これらは明治33(1900)年に、水野家第十代当主忠幹(ただもと)から南葵文庫に寄贈されたものである。関東大震災の後、南葵文庫の蔵書は東京帝国大学へと寄贈されるが、本文書は未整理のまま留め置かれていた。このたび調査が行われ、東京大学総合図書館はこの5点を貴重図書に指定した。 解題 【太政官牒について】(A00:6584) 【古文書巻子三軸について】(A00:6585) 富田正弘(富山大学名誉教授) 小島浩之(東京大学大学院経済学研究科講師) %T 直江状 %C 【解題】直江状(東京大学総合図書館所蔵承応三年刊本) 安土桃山時代から江戸時代前期の大名上杉景勝に仕えた重臣直江兼続(1560~1619)が記したとされる書状を、承応3年(1654)に京都の中村五郎右衛門が刊行したもの。全28丁からなる和装本で、大きさは26.5×17.6cm、総合図書館の貴重書に指定されている(請求番号A00:4631)。藻類学者・水産学者であった岡村金太郎(1867~1935)が収集した往来物とよばれる書簡文体の初等教科書・手本類のなかの1点であり、そのコレクションは関東大震災後の大正14年(1925)に購入・登録され、岡村文庫と称されている。 内容は、徳川家康への謀反の疑いをかけられた上杉景勝が上洛・弁明を求められたのに対し、上洛の困難な理由、家康への逆心のないこと、讒言を用いるべきではないこと等、直江兼続が反論を加えたもの。家康のブレーンであった京都の臨済宗豊光寺の僧・西笑承兌に宛てた、慶長5年(1600)4月14日付けの返書の形を取っている。 「直江状」は、同年の関が原の戦へとつながる家康の会津上杉攻めの口実を作ったとして従来から注目されてきた。一方で、原本が未確認であり、古文書集に収録された写本や総合図書館所蔵本のように版本として流布してきたこともあり、その表記法や内容等から歴史的資料としての信憑性を疑う説も提出されている。少なくとも総合図書館所蔵本の性格を考える上では、かつて往来物として収集されたことに留意しておいてよいだろう。 %T 百鬼夜行図 %C 解説: 百鬼夜行図(ひやつきやぎうず) 蔭山源広迢写 百鬼夜行は今昔物語などの説話にでてくる言葉で、京の大路を夜な夜な化け物たちが練り歩く様子を表している。 室町時代(16世紀)になって、青鬼、赤鬼のほか琴や琵琶、鍋や釜などの器物、調度などが変化(へんげ)した付喪神(つくもがみ)と呼ばれる化け物を集めて連続的に描く「百鬼夜行絵巻」が登場し、数多くの絵巻が描かれた。 なかでも京都・大徳寺真珠庵の絵巻は、「百鬼夜行絵巻」最古のものとされ、その源流といわれている。 現在、現存しているもののほとんどは江戸時代に模写されたものであり、本絵巻もその一つである。 奥書によれば、室町時代の画家土佐行秀の画を蔭山源広迢が写したもので、真珠庵本に登場する妖怪に加え「ぬっぺっぽう」、「どうもこうも」など江戸時代の妖怪たちも紛れ込んでいる。 絵巻の巻末は「火の玉」と「朝日」で終わる2パターンあるが、本巻は「朝日」で終わっている。(請求記号A00:6275)