%T 『三十六歌撰』絵巻 %A 大田南畝書 %A 高田圓乗畫 %C 解説: 『三十六歌撰』絵巻 本『三十六歌撰』絵巻(一巻)は、藤原公任の『三十六人撰』に選ばれている歌人(三十六歌仙)の和歌から、一人一首ずつを選び、歌人名と和歌を大田南畝が染筆したものである。また、それぞれの和歌の内容を、狩野派の絵師である高田円乗が、淡彩で簡略な風景画で描いている。ただし、三十六歌仙のうち、斎宮女御と源重之が欠落しているので、合計三十四人分の和歌と絵からなる。 本絵巻は、三十六歌仙の肖像画ではなく、和歌の風景が描かれているのが特徴である。絵巻の制作年、および制作の動機・目的は未詳。絵師の円乗は、詳しい経歴は不明だが、孔子伝や兼好伝の挿絵も描いている。『大田南畝全集』によれば、円乗は南畝や朋誠堂喜三二と交友があった。本絵巻の末尾に、桐廼舎主人(岡野半牧)の考証で、円乗が「徒士組」だったと記されているのは、円乗の伝記に関する新資料か。だとすれば、南畝・喜三二・円乗の三人には、武家の出身という共通項があることになる。南畝と円乗による、珍しい合作絵巻の佳品である。南葵文庫旧蔵(請求記号A00:6251)。 放送大学教授 島内裕子 %C 一般注記: 写本 %C 請求記号: A00:6251 %T クジラ肩甲骨製?骨角器出土状況 %C 1947 %C webコンテンツ番号: 141 %C webコンテンツカテゴリ: 8 %C 画像の解説: 出土位置等の詳細は不明。『モヨロ遺跡と考古学』の7号竪穴の記述(p.123)に、「竪穴の入口の左によった床の面に附着して、鯨の骨の板がおかれ」とあるので、それに該当する可能性がある。なお、同様の骨角器は、北見市トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点7号竪穴からも出土している。 %C 紙焼き記載の注記: 27 %C アルバム通し番号: 111 %C D番号: D-41 %T キツネ・タヌキの骨の集中 %C 1947 %C webコンテンツ番号: 142 %C webコンテンツカテゴリ: 8 %C 画像の解説: キツネとタヌキの頭骨の中心とした動物骨の集中。出土位置等の詳細は不明だが、粘土の貼床上に位置してるようにも見える。頭骨の集中であることとあわせて考えると、7号竪穴内もしくは10号竪穴内から出土したものである可能性が最も高いとみられる。 %C アルバム通し番号: 37 %C 箱番号: 9-10 %C D番号: D-65 %T 第三次発掘第3号墓 蕨手刀?出土状況 %C 1951 %C webコンテンツ番号: 133 %C webコンテンツカテゴリ: 6 %C 画像の解説: No.132の被甕土器を取り上げた状態の写真とみられる。写真手前に、鉄刀が折り曲げられた状態で副葬されていた様子が確認できる。この刀は、『下巻』別篇p.75や注記では「蕨手刀」とされているが、写真を見る限りでは「曲手刀」のように見える。 %C 紙焼き記載の注記: 第三号 頭部の下から出土した蕨手刀 曲折した重ったもの %C アルバム通し番号: 193 %C 箱番号: 5-10 %C D番号: D-138 %T 集合写真(7号竪穴東壁の前にて) %C 1947 %C webコンテンツ番号: 134 %C webコンテンツカテゴリ: 7 %C 画像の解説: 7号竪穴の東壁の前で撮影された集合写真。前列右より、中島寿雄、駒井和愛、斉藤忠、名取武光、大場利夫。後列右より、中川成夫、小林知生、米村喜男衛、(不詳)、伊藤昌一、井口大介、田辺義一。なお、『下巻』と『モヨロ貝塚』によれば、この年の調査にはほかに松野正彦が加わっていたとされているので、不詳の人物は松野である可能性が高い。名取が手にしている土器は、No.28の7号竪穴出土土器とみられる。なお、人物の特定においては、『琅玕』(駒井和愛著、駒井和愛博士記念会、1977年)の口絵に掲載されている、同時期のモヨロ貝塚にて撮影された集合写真を参照した。 %C 紙焼き記載の注記: No.12 紀念撮影 竪穴第七号東壁前ニテ %C アルバム通し番号: 106 %C 箱番号: 11-3 %C D番号: D-101 %T 集合写真(7号竪穴東壁の前にて) %C 1947 %C webコンテンツ番号: 135 %C webコンテンツカテゴリ: 7 %C 画像の解説: 7号竪穴の東壁の前で撮影された集合写真。手前に炉址が写っており、No.134より後に撮影された可能性が高い。前列右より、名取武光、米村喜男衛、原田淑人、児玉作左衞門、伊藤昌一。後列右より、田辺義一、井口大介、駒井和愛、中川成夫、小林知生、中島寿雄、大場利夫、(不詳)。No.134と同様、不詳の人物は松野正彦である可能性が高い。 %C 報告書等の図版番号: 『北辺の海の民』図16 %C アルバム通し番号: 107 %C 箱番号: 11-9 %C D番号: D-102 %T 集合写真(モヨロ貝塚近辺の海岸にて) %C 1947 %C webコンテンツ番号: 136 %C webコンテンツカテゴリ: 7 %C 画像の解説: モヨロ貝塚近辺の海岸で撮影された集合写真。背後に帽子岩が見える。おそらくNo.135と近い時期に撮影されたものとみられる。前列右より、名取武光、伊藤昌一、原田淑人、駒井和愛、大場利夫。後列右より、田辺義一、中川成夫、小林知生、中島寿雄、井口大介。 %C アルバム通し番号: 90 %C 箱番号: 14-1 %C D番号: D-89 %T 集合写真(帽子岩を背にして) %C 1948 %C webコンテンツ番号: 137 %C webコンテンツカテゴリ: 7 %C 画像の解説: 遺跡近くの海岸にある帽子岩を背にして撮影された集合写真。前列右より、関野雄、小林知生、駒井和愛、佐藤達夫、斉藤忠、名取武光、松田孝(東大理学部学生)。後列右より、曽野寿彦、田中一郎、古河静江、鈴木八司、市川健二郎。なお、この写真は『琅玕』(駒井和愛著、駒井和愛博士記念会、1977年)の口絵に掲載されている。 %C アルバム通し番号: 171 %C 箱番号: 6-3 %C D番号: D-121 %T 集合写真(地元の方々と) %C 1948 %C webコンテンツ番号: 138 %C webコンテンツカテゴリ: 7 %C 画像の解説: 民家を背に、地元の方々とみられる家族?と一緒に撮影された集合写真。背後に積まれた魚箱とみられる木箱や、森の様子から見て、モヨロ貝塚の近隣で撮影されたものとみられる。人物構成からすると撮影年は昭和23年の可能性が高い。前列右より、名取武光、駒井和愛、(女児A)、小林知生、(男児A)、斉藤忠。後列右より、関野雄、鈴木八司?、(女性A)、(男性A)、(女性B)、(女性Cと乳幼児)。男性Aと女性AはNo.139でも一緒に撮影されている。 %C アルバム通し番号: 42 %C 箱番号: 2-2 %C D番号: D-70 %T 集合写真(地元の方々と) %C 1948 %C webコンテンツ番号: 139 %C webコンテンツカテゴリ: 7 %C 画像の解説: 民家を背に、地元の方々とみられる家族?と一緒に撮影された集合写真。No.138と同じ人物(同写真の男性Aと女性A)が含まれることから、同じ民家の前で撮影されたものとみられる。撮影年は不明だが、人物構成からすると昭和23年、もしくは26年とみられる。前列右より、(女性D)、(女児B)、(No.138の女性A)、(男児B)、(女性E)、(No.138の男性A)、駒井和愛、斉藤忠。後列右より、曽野寿彦?、(不詳A)、中川成夫?、桜井清彦、田中一郎?、杉勇?、(不詳B)、市川健二郎?。不詳Bの人物は東大の学帽を被っており、東大生とみられる。No.138の女児Aとこの女児B、同男児Aと男児Bは同一人物の可能性がある。 %C アルバム通し番号: 184 %C 箱番号: 5-1 %C D番号: D-131 %T 調査風景と人物写真 %C 1948 %C webコンテンツ番号: 140 %C webコンテンツカテゴリ: 7 %C 画像の解説: 調査中に撮影されたとみられる人物写真。後列の2名は、服装等から見てNo,139の後列にいる人物2名(杉勇?と田中一郎?)と同一とみられる。よって、撮影年は昭和23年または26年とみられる。撮影場所は、サブトレンチが見える点からするといずれかの竪穴のようにも思われるが、周囲の風景は竪穴周辺とは異なるようである。よって貝塚トレンチの可能性もあるが、いずれにしても不明である。人物は、前列は右より、米村喜男衛、斉藤忠、名取武光、(不詳)。後列は右から田中一郎?、杉勇?とみられる。 %C アルバム通し番号: 118 %C 箱番号: 10-1 %C D番号: D-106 %T 24号竪穴 土器出土状況 %C 1951 %C webコンテンツ番号: 125 %C webコンテンツカテゴリ: 6 %C 画像の解説: 注記に記載された略図によると、出土位置は竪穴の中央からやや南西よりの位置、『下巻』別篇p.70 Fig.8平面図の「B」区から出土したとされる。土器は『下巻』別篇p.71 Fig.9-3の続縄文初頭の土器に該当する。 %C 紙焼き記載の注記: 24号出土土器 モヨロ(出土位置の略図あり) %C 報告書等の図版番号: 『下巻』PL.73-2 %C アルバム通し番号: 186 %C 箱番号: 5-3 %C D番号: D-133 %T 24号竪穴 土器出土状況 %C 1951 %C webコンテンツ番号: 126 %C webコンテンツカテゴリ: 6 %C 画像の解説: 土器は『下巻』別篇p.71 Fig.9-1の続縄文初頭の土器に該当する。 %C アルバム通し番号: 160 %C 箱番号: 7-5 %C D番号: D-117 %T 24号竪穴 北西壁 土器出土状況 %C 1951 %C webコンテンツ番号: 127 %C webコンテンツカテゴリ: 6 %C 画像の解説: 注記によれば、24号竪穴の「北西壁」で出土したとされる。土器は『下巻』別篇p.71 Fig.9-2の続縄文初頭の土器に該当するとみられる。 %C 紙焼き記載の注記: 6.24号 北西壁 出土土器 %C アルバム通し番号: 197 %C 箱番号: 5-14 %C D番号: D-140 %T 第三次発掘第1号墓 %C 1951 %C webコンテンツ番号: 128 %C webコンテンツカテゴリ: 6 %C 画像の解説: 第三次発掘Aトレンチの南端部で検出されたオホーツク文化の墓。被甕土器は貼付文系土器。墓坑内の、被甕土器の反対側(写真左側)には土器の底部とみられる遺物が認められるが、これが墓に伴うか否かは不明である。蕨手刀が副葬されていたとされるが、写真では確認できない。『下巻』別篇p.73 Fig.12はこの写真をトリミングしたものとみられる。 %C 報告書等の図版番号: 『下巻』別篇p.73 Fig.12 %C アルバム通し番号: 156 %C D番号: D-44 %T 第三次発掘第1号墓 被甕土器 %C 1951 %C webコンテンツ番号: 129 %C webコンテンツカテゴリ: 6 %C 画像の解説: No.128の被甕土器の近景。この土器は『下巻』別篇p.73 Fig.15-3に該当する。 %C アルバム通し番号: 155 %C 箱番号: 7-2 %C D番号: D-114 %T 第三次発掘第1号墓 %C 1951 %C webコンテンツ番号: 130 %C webコンテンツカテゴリ: 6 %C 画像の解説: No.128の被甕土器を取り上げ、人骨を検出した状態。『下巻』別篇p.74では、人骨の遺存状況は極めて悪く、痕跡をとどめるに過ぎないと報告されている。 %C アルバム通し番号: 157 %C 箱番号: 7-3 %C D番号: D-115 %T 第三次発掘第2号墓 %C 1951 %C webコンテンツ番号: 131 %C webコンテンツカテゴリ: 6 %C 画像の解説: 第三次発掘Bトレンチで検出されたオホーツク文化の墓。被甕土器(刻文系土器)を取り上げた状態の写真とみられ、遺体の痕跡とともに、副葬品の石鏃が遺体の頭部・胸部・脚部で出土している状況が確認できる。遺体の頚部で出土したとされる蕨手刀は写真では確認できない。 %C 報告書等の図版番号: 『下巻』別篇p.73 Fig.13 %C アルバム通し番号: 158 %C D番号: D-45 %T 第三次発掘第3号墓 上部の土器 %C 1951 %C webコンテンツ番号: 132 %C webコンテンツカテゴリ: 6 %C 画像の解説: 第三次発掘Bトレンチで検出されたオホーツク文化の墓。墓の上部で被甕土器が検出された状態の写真である。被甕土器のほかに、その周辺で宇津内Ⅱa式土器や後北C2・D式土器が出土した様子が写っている。被甕土器は『下巻』別篇p.73 Fig.15-2に該当する無文土器で、熊木編年(2018)では刻文期後半もしくはそれ以降に相当するとみられる。 %C 紙焼き記載の注記: BT内出土 3号墓上 土器 %C アルバム通し番号: 71 %C 箱番号: 12-5 %C D番号: D-85 %T 19号竪穴 炉址 %C 1951 %C webコンテンツ番号: 117 %C webコンテンツカテゴリ: 6 %C 画像の解説: 南方向から撮影。 %C アルバム通し番号: 189 %C 箱番号: 5-6 %C D番号: D-136