%T 済生備考 1巻 %A 杉田成郷 %C 1850 %C 請求記号: HR:160 %C 資料解説: 著者の杉田成郷は杉田玄白の孫にあたり、わが国最初(1855年)のエーテル吸入麻酔を行った。この書の2巻には「麻酔」という用語が使用されている。1巻の聴胸器用法略説では、ラエネックスのテトスコープ(聴胸器)について図を載せて紹介している。 %T 済生備考 2巻 %A 杉田成郷 %C 1850 %C 請求記号: HR:160 %C 資料解説: 著者の杉田成郷は杉田玄白の孫にあたり、わが国最初(1855年)のエーテル吸入麻酔を行った。この書の2巻には「麻酔」という用語が使用されている。1巻の聴胸器用法略説では、ラエネックスのテトスコープ(聴胸器)について図を載せて紹介している。 %T 日講紀聞 4巻 %A 抱獨英(ボードイン)氏口授 %C 1870 %C 請求記号: HR:267 %C 資料解説: Bauduin (オランダ 1882-1885)は、長崎養生所で教えていたポンペの後任として1862年に来日する。再来日した1869年より大阪医学校で教えた後、大学東校で約2ヶ月間教壇に立った。この書はその時の講義録をまとめたもの。当時、大学東校は上野への移転計画があり図面作成など準備が進められていたが、ボードインはこの計画に強く反対した。後に上野移転は中止となり、代わりに本郷の旧加賀藩邸へ移ることとなった。 %T 西説醫範提綱釋義 1巻 %A 宇田川榛齋, 譯述 %A 諏訪俊, 筆記 %C 1805 %C 請求記号: HR:61 %C 資料解説: 宇田川榛齋はいくつかの西洋解剖書を翻訳しまとめた「遠西医範」を刊行しようとしたが、実現できなかった。「西説醫範提綱釋義」は榛齋の門人諏訪俊により、その抄本として出された。江戸時代の解剖書の中では最も普及した。内容が平易で病理学や疾病の原因まで及んでいる。題簽タイトル「醫範提綱」。見返しタイトル「和蘭内景醫範提綱」附図:「 西説醫範提綱内象銅版図 」。 %T 西説醫範提綱釋義 2巻 %A 宇田川榛齋, 譯述 %A 諏訪俊, 筆記 %C 1805 %C 請求記号: HR:61 %C 資料解説: 宇田川榛齋はいくつかの西洋解剖書を翻訳しまとめた「遠西医範」を刊行しようとしたが、実現できなかった。「西説醫範提綱釋義」は榛齋の門人諏訪俊により、その抄本として出された。江戸時代の解剖書の中では最も普及した。内容が平易で病理学や疾病の原因まで及んでいる。題簽タイトル「醫範提綱」。見返しタイトル「和蘭内景醫範提綱」附図:「 西説醫範提綱内象銅版図 」。 %T 西説醫範提綱釋義 3巻 %A 宇田川榛齋, 譯述 %A 諏訪俊, 筆記 %C 1805 %C 請求記号: HR:61 %C 資料解説: 宇田川榛齋はいくつかの西洋解剖書を翻訳しまとめた「遠西医範」を刊行しようとしたが、実現できなかった。「西説醫範提綱釋義」は榛齋の門人諏訪俊により、その抄本として出された。江戸時代の解剖書の中では最も普及した。内容が平易で病理学や疾病の原因まで及んでいる。題簽タイトル「醫範提綱」。見返しタイトル「和蘭内景醫範提綱」附図:「 西説醫範提綱内象銅版図 」。 %T 日講紀聞 1巻 %A 抱獨英(ボードイン)氏口授 %C 1870 %C 請求記号: HR:267 %C 資料解説: Bauduin (オランダ 1882-1885)は、長崎養生所で教えていたポンペの後任として1862年に来日する。再来日した1869年より大阪医学校で教えた後、大学東校で約2ヶ月間教壇に立った。この書はその時の講義録をまとめたもの。当時、大学東校は上野への移転計画があり図面作成など準備が進められていたが、ボードインはこの計画に強く反対した。後に上野移転は中止となり、代わりに本郷の旧加賀藩邸へ移ることとなった。 %T 日講紀聞 2巻 %A 抱獨英(ボードイン)氏口授 %C 1870 %C 請求記号: HR:267 %C 資料解説: Bauduin (オランダ 1882-1885)は、長崎養生所で教えていたポンペの後任として1862年に来日する。再来日した1869年より大阪医学校で教えた後、大学東校で約2ヶ月間教壇に立った。この書はその時の講義録をまとめたもの。当時、大学東校は上野への移転計画があり図面作成など準備が進められていたが、ボードインはこの計画に強く反対した。後に上野移転は中止となり、代わりに本郷の旧加賀藩邸へ移ることとなった。 %T 日講紀聞 3巻 %A 抱獨英(ボードイン)氏口授 %C 1870 %C 請求記号: HR:267 %C 資料解説: Bauduin (オランダ 1882-1885)は、長崎養生所で教えていたポンペの後任として1862年に来日する。再来日した1869年より大阪医学校で教えた後、大学東校で約2ヶ月間教壇に立った。この書はその時の講義録をまとめたもの。当時、大学東校は上野への移転計画があり図面作成など準備が進められていたが、ボードインはこの計画に強く反対した。後に上野移転は中止となり、代わりに本郷の旧加賀藩邸へ移ることとなった。 %T 虎烈刺論 %A 石黒忠悳 %C 1871 %C 請求記号: HR:289 %T 内科病論 上篇 %A ベルツ原著 %A 伊勢錠五郎, 譯補 %A 樫村清徳, 校閲 %C 1882 %C 請求記号: ベルツ資料:J %C 資料解説: 著者のエルヴィン・フォン・ベルツ(独 1849-1913)は東京医学校(東京大学医学部)のお雇い外国人教師、在職期間は明治9年6月~35年7月。来日当初は生理学の講義を担当、前任者が帰国後に内科学、病理学などを担当し臨床の重要性を説いた。在職は26年間にも渡り、日本の学生への教育指導と患者の診療に力を尽くした。 %T 内科病論 下篇 %A ベルツ原著 %A 伊勢錠五郎, 譯補 %A 樫村清徳, 校閲 %C 1882 %C 請求記号: ベルツ資料:J %C 資料解説: 著者のエルヴィン・フォン・ベルツ(独 1849-1913)は東京医学校(東京大学医学部)のお雇い外国人教師、在職期間は明治9年6月~35年7月。来日当初は生理学の講義を担当、前任者が帰国後に内科学、病理学などを担当し臨床の重要性を説いた。在職は26年間にも渡り、日本の学生への教育指導と患者の診療に力を尽くした。 %T 内科病論 中篇 %A ベルツ原著 %A 伊勢錠五郎, 譯補 %A 樫村清徳, 校閲 %C 1882 %C 請求記号: ベルツ資料:J %C 資料解説: 著者のエルヴィン・フォン・ベルツ(独 1849-1913)は東京医学校(東京大学医学部)のお雇い外国人教師、在職期間は明治9年6月~35年7月。来日当初は生理学の講義を担当、前任者が帰国後に内科学、病理学などを担当し臨床の重要性を説いた。在職は26年間にも渡り、日本の学生への教育指導と患者の診療に力を尽くした。 %T 各骨真形図 %A [各務文献] %C 1810 %C 請求記号: HR:320 %C 資料解説: 各務文献(かがみぶんけん、生没年未詳)は、大阪の整骨師。治療のかたわら、人身の研究・教育にはげみ、文化12(1815)年には、女囚の腑分もおこなった(「婦人内景図」)。 この「各骨真形図」は、もともと「整骨新書」の末尾の図像として刷られたものである。「 解體新書 」の影響が歴然とみられ、当時の骨学の水準を推し量ることのできる図像である。なお、各務文献は1810年ごろ、工人に等身大の成人男性の「木骨(もっこつ)」を製作させ、幕府に献上している(通称「各務木骨」)。木骨とは木製の人体骨格模型のことで、幕末から明治初年にかけて10体ほど製作された。人骨を直接的に考究できなかった当時、木骨は、西洋近代医学の振興に大いに寄与した。現存するものは、わずかに3体であるが、そのうち「各務木骨」は本学に伝わり、現在、本学の総合研究博物館に収蔵されている。 %T 重訂解體新書 卷3名義解下 (9巻) %A 大槻玄沢, 重訂 %A 杉田玄白, 等訳 %C 1826 %C 請求記号: HR:342 %C 資料解説: 文政9年 (1826) 大槻玄沢(茂質、1757-1827)が師の杉田玄白より「 解體新書 」の原典を翻訳・重訂するよう依頼され刊行したもので、内容は杉田玄白の「解體新書」よりはるかに正確で、江戸時代の解剖書としては最も完備したものであると同時に大槻玄沢の学識の博さが知られる。また、図版 「 重訂解體新書銅版全図 」は、中伊三郎の作で、伊三郎は大阪の蘭学者中天游の徒弟で、江戸で玄沢に学んだ斉藤方策がその技術を認め玄沢にすすめたと伝えられている。 %T 重訂解體新書 卷4名義解 (10巻) %A 大槻玄沢, 重訂 %A 杉田玄白, 等訳 %C 1826 %C 請求記号: HR:342 %C 資料解説: 文政9年 (1826) 大槻玄沢(茂質、1757-1827)が師の杉田玄白より「 解體新書 」の原典を翻訳・重訂するよう依頼され刊行したもので、内容は杉田玄白の「解體新書」よりはるかに正確で、江戸時代の解剖書としては最も完備したものであると同時に大槻玄沢の学識の博さが知られる。また、図版 「 重訂解體新書銅版全図 」は、中伊三郎の作で、伊三郎は大阪の蘭学者中天游の徒弟で、江戸で玄沢に学んだ斉藤方策がその技術を認め玄沢にすすめたと伝えられている。 %T 重訂解體新書 附録上 (11巻) %A 大槻玄沢, 重訂 %A 杉田玄白, 等訳 %C 1826 %C 請求記号: HR:342 %C 資料解説: 文政9年 (1826) 大槻玄沢(茂質、1757-1827)が師の杉田玄白より「 解體新書 」の原典を翻訳・重訂するよう依頼され刊行したもので、内容は杉田玄白の「解體新書」よりはるかに正確で、江戸時代の解剖書としては最も完備したものであると同時に大槻玄沢の学識の博さが知られる。また、図版 「 重訂解體新書銅版全図 」は、中伊三郎の作で、伊三郎は大阪の蘭学者中天游の徒弟で、江戸で玄沢に学んだ斉藤方策がその技術を認め玄沢にすすめたと伝えられている。 %T 重訂解體新書 附録下 (12巻) %A 大槻玄沢, 重訂 %A 杉田玄白, 等訳 %C 1826 %C 請求記号: HR:342 %C 資料解説: 文政9年 (1826) 大槻玄沢(茂質、1757-1827)が師の杉田玄白より「 解體新書 」の原典を翻訳・重訂するよう依頼され刊行したもので、内容は杉田玄白の「解體新書」よりはるかに正確で、江戸時代の解剖書としては最も完備したものであると同時に大槻玄沢の学識の博さが知られる。また、図版 「 重訂解體新書銅版全図 」は、中伊三郎の作で、伊三郎は大阪の蘭学者中天游の徒弟で、江戸で玄沢に学んだ斉藤方策がその技術を認め玄沢にすすめたと伝えられている。 %T 古今医按 2巻 %A 不明 %C 請求記号: HR:346 %T 古今医按 3巻 %A 不明 %C 請求記号: HR:346