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1858~1867
1858 |
5月 |
江戸の蘭方医83名の出資により神田お玉ヶ池に私設の種痘所が開設される |
伊東玄朴「医療正始」 大槻俊斎「扶氏診断」 桑田立斎「牛痘發蒙」 |
7月 |
将軍家定の病状が重症化する 1849年より禁止されていた蘭方医術が解禁され |
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11月 | 神田相生町からの出火で種痘所が類焼する 大槻俊斎 伊東玄朴 宅を臨時の種痘所とし, 種痘業務を続ける |
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12月 | 仮小屋を下谷和泉橋通りに建てる | ||
1859 |
9月 | 下谷和泉橋通りに種痘所を再建する | |
1860 (万延元) |
7月 | 幕府からの公式な援助を得られることになる | |
10月 | 幕府に接収され, 官立の種痘所となる 初代頭取に大槻俊斎 |
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1861 |
3月 |
種痘奨励のため「種痘諭文」を発行する |
「種痘諭文」(複製) |
8月 | 医学研究のために毎年男女各1体の人体解剖の許可を願い出る | ||
10月 | 小塚原刑場での人体解剖が許可される 西洋医学所と改称, 組織を種痘・医学教育・解剖の三科とする |
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1862 |
閏8月 |
2代頭取に緒方洪庵 |
緒方洪庵「扶氏経験遺訓」 |
1863 (文久3) |
2月 | 医学所と改称 | 松本良順「薬性学」 |
7月 |
3代頭取に松本良順 |
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1865 |
春 | ポンペのもとで学んだ松本良順は, 組織の整備拡充を行いいわゆる七科(物理・化学・解剖・生理・病理・薬剤学・内科・外科)を置く | |
1866 |
5月 | 種痘のための出張所を江戸数ヵ所に置く |
1868~1877
1868 (明治元) |
7月 | 横浜の軍陣病院を下谷藤堂邸に移し, 医学所を含めて大病院と称する | 「学校履歴」 明治元年から9年までを記録したもの |
1869 (明治2) |
1月 | 相良知安, 岩佐純が政府の医学取調御用掛に任命される ドイツ医学の採用に力を尽くす |
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2月 | 医学校兼病院と改称, 5局(医学校・病院・種痘館・黴毒院・薬園)とする | ||
6月 | 相良知安がドイツより教師を招くことを建議し, 2名を招請することとなる | ||
8月 | 人体解剖の必要を建議し, 容認される | ||
12月 | 大学東校と改称 | ||
1870 (明治3) |
5月 | 政府は大学東校の上野移転を決定する | 大学東校上野移転計画図 |
7月 | ドイツ人教師ミュルレルとホフマンの来任が普仏戦争の影響で遅れたため, 大阪医学校教師の任期を終えたボードイン(オランダ)に講義を委嘱する 上野移転の計画をボードインの反対により中止する |
ボードイン「日講紀聞」 |
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10月 | ボードイン 退任 | ||
閏10月 | 学則を制定し正則 5年と変則 3年を置く | ||
11月 | ドイツ医学修得のため池田謙斎, 大沢謙二, 長井長義ら9名が国費留学する | ||
1871 (明治4) |
7月 | 東校と改称, 文部省の所管となる | |
8月 | ミュルレル, ホフマン が来任 外科学, 内科学の講義を行う ミュルレルに日本の医学教育制度構築の全権をたくす |
ミュルレル、ホフマン「医科全書」 |
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10月 | 学制を大きく改革し, 予科3年 本科5年とする | ||
11月 | 種痘館を廃止し, 東校に種痘局を開設する | ||
1872 (明治5) |
7月 | 学制を予科2年 本科5年に改める, 毎年9月入学とする | |
8月 | 学区制に伴い第一大学区医学校と改称 | ||
1873 (明治6) |
6月 | 製薬学教場を置く, 予科2年 本科3年とする | |
7月 | デーニッツ 来任 解剖学の講義を担当する | ||
1874 (明治7) |
5月 | 東京医学校と改称 | |
8月 | ミュルレル, ホフマン 任期満了 (帰国する翌年11月まで天皇の侍医を務める) |
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10月 | 長与専斎が校長に, 本郷への移転を建議する | ||
12月 | シュルツェ , ウェルニヒ 来任 | ||
1875 (明治8) |
5月 | 通学生教場医学3年 製薬学2年を置く, 年2回入学で 講義は邦人教師が行う |
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1876 (明治9) |
6月 | ベルツ 来任 | ベルツ「鼈氏診断学」 ベルツ「内科病論」 |
11月 | 本郷に校舎病院の建築が完成し, 移転をする ウェルニヒ 退任 後任のベルツが内科学の講義を担当する |
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1877 (明治10) |
4月 | 総合大学としての東京大学創立 医学部綜理には池田謙斎 本科の邦人教授陣は田口和美(解剖学) 大沢謙二(生理学) 三宅秀(病理学) 樫原清徳(薬剤学) 桐原真節, 赤星研造(外科総論) 柴田承桂(製薬学) |
1878~1911
1878 (明治11) |
3月 | 製薬学の本科より9名が初めて卒業する | 明治10年ヨリ11年ニ至ル 冬半期学科表「医学部第五年報」 |
6月 | 書籍展覧室を新設する | ||
1879 (明治12) |
5月 | 通学生が初めて卒業する 医学31名 製薬学20名 | |
10月 | 医学本科生が初めて卒業し, 18名が医学士となる | ||
11月 | 医学士となった清水郁太郎, 梅錦之丞, 新藤二郎がドイツへ国費留学する | ||
1880 (明治13) |
10月 | 医学通学生を「別課医学生」と改称する この年, 小金井良精ドイツへ留学する |
医学部全図「医学部一覧 明治13~14年」 |
1881 (明治14) |
4月 | シュルツェ 退任 | |
6月 | スクリバ 来任 外科の講義を担当する | ||
1883 (明治16) |
1月 | ドイツより帰国した清水郁太郎が産婦人科を 梅錦之丞が眼科の講義を行う |
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1885 (明治18) |
4月 | 別課医学生と製薬科学生の募集を停止する | |
6月 | 小金井良精がドイツより帰国, 9月より解剖学の講義を始める | ||
1886 (明治19) |
3月 | 帝国大学と改称 東京大学医学部は帝国大学医科大学となり, 大学院が新設された 「綜理」を「学長」に改める 初代医科大学学長は三宅秀 |
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1887 (明治20) |
ヨーロッパ留学より帰国した 三浦守治(病理) 青山胤道(内科) 佐藤三吉(外科) 下山順一郎, 丹波敬三(薬学)らが教授に就任する | ||
1888 (明治21) |
6月 | 別課を廃止する | |
1893 (明治26) |
9月 | 帝国大学令により講座数が定められ, 医学科20講座 教授17人 薬学科3講座 教授3人(両科ともすべて邦人)となる 小金井良精が学長就任 |
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1897 (明治30) |
6月 | 東京帝国大学医科大学と改称される | |
1901 (明治34) |
9月 | スクリバ 退任 青山胤通が学長就任 |
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11月 | 外科教室・手術室が竣工 | ||
1902 (明治35) |
1月 | 生理学・衛生学・薬物学・医化学教室が竣工 | 生理学・衛生学・薬物学・医化学教室 |
3月 | 外科病室4棟が竣工 | ||
7月 | ベルツ 退任 在職期間は26年に及ぶ | ||
1904 (明治37) |
6月 | 病理学教室・病理解剖室が竣工 | 病理学標本室 |
1906 (明治39) |
11月 | 解剖学教室・法医学教室が竣工 | 解剖実習室 |
1907 (明治40) |
8月 | 薬学教室が竣工 | |
1910 (明治43) |
6月 | 付属医院外来診察所が竣工 | 外来診察室 |
1911 (明治44) |
3月 | 付属医院薬局が竣工 |