明治11(1878)年 | |
3月8日 | 芸州藩より明治海軍の主計官に転じた平賀百左衛門(当時、海軍省軍務局勤務)の末子として東京三田豊岡町に生まれる。 第一子房子、第二子満寿子、第三子徳太郎、第四子多可子。 |
明治14(1881)年〔3歳〕 | |
12月27日 | 父、東海鎮守府(後の横須賀鎮守府)に配転。 共に横須賀へ移る。 |
明治19(1886)年〔8歳〕 | |
3月2日 | 帝国大学令を公布。 |
4月10日 | 師範学校令・小学校令。中学校令を公布。 |
4月26日 | 海軍条令公布。軍令、軍制を分立。 |
7月12日 | 海軍技術官に武官制。 |
明治22(1889)年〔11歳〕 | |
2月11日 | 大日本帝国憲法発布。 |
明治23(1890)年〔12歳〕 | |
4月1日 | 泰明小学校より東京府尋常中学校(後の東京府立第一中学校)に入学。 |
明治27(1894)年〔16歳〕 | |
6月25日 | 高等学校令を公布。 |
8月1日 | 清国に宣戦布告。 |
明治28(1895)年〔17歳〕 | |
3月31日 | 東京府尋常中学校を卒業。 |
4月17日 | 日清講和条約締結。 |
4月23日 | 三国干渉。 |
9月11日 | 第一高等学校に入学。 |
明治31(1898)年〔20歳〕 | |
7月7日 | 第一高等学校を卒業。 |
7月8日 | 東京帝国大学工科大学(後の工学部)造船学科(後の船舶工学科)に入学 |
明治32(1899)年〔21歳〕 | |
3月1日 | 中国山東省で義和団蜂起。 |
4月1日 | 海軍造船学生となる。 |
明治34(1901)年〔23歳〕 | |
6月21日 | 東京帝国大学工科大学造船学科の卒業試験に首席及第。卒業論文は"On?the?Longitudinal?Strength?of?Some?Recent?Torpedo?Boats"?(教室受領6月15日)。 |
6月27日 | 海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)。同時任命に゛稲川与-、゛柴田秀生、゛田原得三、東海勇蔵、新庄季九郎、鈴木四郎、諏訪小熊(呀「」は造機専攻)。 同日、平賀は横須賀海軍造船廠(後の横須賀海軍工廠)造船料主幹。 |
7月10日 | 東京帝国大学卒業式。工科大学造船学科を卒業(同期生計14名)。 |
7月17日 | 横須賀海軍造船廠に着任。主として雑船、水雷艇の修理方を担当。 |
11月18日 | 第五・六号水雷艇汽走公試委員。 |
明治35(1902)年〔24歳〕 | |
1月30日 | 日英同盟協約、ロンドンで調印。 |
5月15日 | 軍艦武蔵・八重山の救護委員(委員長、海軍少将植村永孚)。軍艦武蔵は5月1日、軍艦八重山は武蔵救援中の5月11日、それぞれ根室港付近で座礁。 |
5月18日 | イギリス、ヴィッカーズ社で建造の軍艦三笠、横須賀に回着。 |
10月11日 | 造船科製図工場付。 |
明治36(1903)年〔25歳〕 | |
4月27日 | 実地研究のため軍艦八島に乗組(常備艦隊)。 |
9月26日 | 海軍造船大技士(後の海軍造船・造機大尉)。 |
10月14日 | 実地研究のため軍艦三笠に乗組(常備艦隊)。 |
明治37(1904)年〔26歳〕 | |
1月6日 | 呉鎮守府付 |
1月13日 | 呉海軍工廠造船部付。 |
1月15日 | 呉海軍工廠造船部々員 |
2月10日 | ロシアに宣戦布告。 |
2月24日 | 旅順口封鎖作戦を開始。 |
5月15日 | 旅順口封鎖作戦中の戦艦初瀬・八島、敵機雷に触れ沈没。代艦として戦艦薩摩・安芸、装甲巡洋艦筑波・生駒の国内建造を計画。平賀は筑波の製図初期を担当。 |
12月1日 | 大学同級生原正幹の妹カズ(原作蔵長女、当年23歳)に結納。 |
明治38(1905)年〔27歳〕 | |
1月1日 | 旅順ロシア軍より降伏申出。 |
1月7日 | 旅順口海面整理方針取調委員(委員長、海軍中将柴山矢八)。但し、まもなくイギリス駐在発令のため、任地の旅順口には赴任せず。 |
1月14日 | 装甲巡洋艦筑波、呉海軍工廠にて起工。 |
1月27日 | イギリス駐在を仰せつかる。 |
2月8日 | 東京赤坂氷川神社にて結婚式。 |
2月25日 | 結婚願を海軍大臣山本権兵衛に提出(2月27日認許)。 |
2月28日 | 横浜発。アメリカ経由でイギリスへ向かう。 |
4月7日 | ロンドン着、ただちにグリニッジ海軍大学校への入学準備。 |
5月27日 | 日本海海戦(~5月28日)。兄徳太郎、軍艦出雲砲術長。 |
9月5日 | 日露講和条約締結。 |
10月1日 | グリニッジ海軍大学校修学開始。 |
10月2日 | 戦艦ドレッドノート、ポーツマス海軍工廠にて起工。 |
12月16日 | 装甲巡洋艦筑波、進水。 |
明治39(1906)年〔28歳〕 | |
2月10日 | 戦艦ドレッドノート、進水。 |
7月1日 | グリニッジ海軍大学校夏季休業中、ポーツマス、デボンポート両海軍工廠を見学(~9月30日)。ポーツマス海軍工廠では、とくに戦艦ドレッドノートを調査。 |
12月11日 | 戦艦ドレッドノート、竣工。 |
明治40(1907)年〔29歳〕 | |
1月14日 | 装甲巡洋艦筑波、竣工。 |
4月4日 | 初めて「帝国ノ国防方針」策定さる。海軍は八八艦隊構想を提起。 |
明治41(1908)年〔30歳〕 | |
6月30日 | グリニッジ海軍大学校造船科を卒業。 |
10月1日 | 帰朝を仰せつかる。ロンドン出発まで、ペンブルック、グラスゴーの諸造船所見学(11月)、イタリア、フランスの諸造船所見学(12月)。 |
12月12日 | 日本郵船丹波丸でロンドン発。 |
明治42(1909)年〔31歳〕 | |
1月26日 | 横浜に帰着。 |
2月1日 | 海軍艦型試験所令施行。東京築地に試験水槽を設置。初代所長は近藤基樹。 |
2月3日 | 海軍艦政本部々員。同日、艦艇艤装方針調査委員。6月23日事務終了。 |
2月4日 | 海軍艦政本部第三部に勤務(第三部長は福田馬之助)。扶桑型戦艦の基本計画に参画。 |
3月19日 | 海軍軍令部出仕(兼務)。 |
9月25日 | 東京帝国大学工科大学講師(~大正元年8月16日)。 |
10月11日 | 海軍造船少監(後の海軍造船・造機少佐)。 |
12月1日 | 火薬審査委員(委員会は明治41年5月に設置。委員長、海軍中将片岡七郎)。 |
明治43(1910)年〔32歳〕 | |
5月25日 | 大逆事件の大検挙はじまる。 |
8月22日 | 韓国合併の日韓条約調印。 |
大正1(1912)年〔34歳〕 | |
4月6日 | 特鎮海防備隊、旅順鎮守府、第二艦隊を順次検閲、5月22日東京帰着。命検閲使。4月20日新橋発。佐世保鎮守府、永興防備隊。 |
7月30日 | 明治天皇崩御。 |
8月5日 | 横須賀海軍工廠造船部々員。 |
8月16日 | 東京帝国大学工科大学講師解嘱。 |
8月26日 | 製図工場長、新造主任。戦艦山城(扶桑型)。巡洋戦艦比叡、2等駆逐艦樺を担当。 |
11月21日 | 巡洋戦艦比叡、進水。 |
12月1日 | 海軍造船中監(後の海軍造船・造機中佐)。 |
大正2(1913)年〔35歳〕 | |
6月10日 | 造船工場長(兼務)。 |
11月14日 | 「最近軍艦二於ケル特質鋼ノ使用」を造船協会にて発表 |
11月20日 | 戦艦山城。横須賀海軍工廠にて起工。 |
大正3(1914)年〔36歳〕 | |
1月23日 | 議会でシーメンス事件追及。 |
2月19日 | 巡洋戦艦比叡公試運転委員、旋回力公試委員、砲烟公試委員、水雷公試委員、電気公試委員、無線電信機公試委員。 |
7月28日 | 第1次世界大戦はじまる。 |
8月4日 | 巡洋戦艦比叡竣工。 |
8月23日 | ドイツに宣戦布告。 |
12月1日 | 2等駆逐艦樺、横須賀海軍工廠にて起工 |
大正4(1915)年〔37歳〕 | |
2月20日 | 2等駆逐艦樺公試運転委員、砲煩公試委員、水雷公試委員、旋回力公試委員。 |
3月15日 | 2等駆逐艦樺、竣工。 |
9月22日 | 横須賀海軍工廠創立50周年記念祝典接待委員。 |
10月1日 | 海軍艦政本部を海軍技術本部と海軍艦政部とに分離。 |
10月23日 | 大正2年11月14日に造船協会で発表の「最近軍艦二於ケル特質鋼ノ使用」に対し造船協会賞牌。 |
11月3日 | 戦艦山城進水。 |
大正5(1916)年〔38歳〕 | |
1月26日 | 横須賀海軍工廠船渠、開渠式。 |
4月7日 | 造船工場長兼務を免ぜらる。 |
5月12日 | 戦艦長門、呉海廠に製造訓令。 |
5月15日 | 海軍技術本部々員、造船監督官。海軍技術本部第四部に勤務(第四部長は福田馬之助、計画主任は浅岡満悛)。八八艦隊主力艦の基本計画を担当。 |
5月18日 | 臨時海軍軍事調査会委員。 |
5月31日 | ジュトランド海戦(~6月1日) |
8月11日 | ジュトランド海戦の戦訓により改正の戦艦長門新艦型(A114)、大臣室会議にて決定(10月28日、改正建造訓令)。 |
9月13日 | 新戦艦に関する大臣室会議に4万トン・35ノット級巡洋戦艦2案と4万5000トン・35ノット級高速戦艦2案とを比較提案。大臣は戦艦計画を優先させるよう希望。 |
10月9日 | 大臣室会議に高速戦艦4案(A115、A116、A117、A118)・巡洋戦艦4案(B58、B59、B60、B61)を提案。いずれも初めて舷側傾斜甲鉄を採用、以後の計画に踏襲。他に10門搭載の試案も準備(後のA119)。 |
12月1日 | 球磨型巡洋艦の海軍技術会議にて船殼軽構造を提唱。賛成わずか1名。後の巡洋艦夕張への萌芽。 |
12月26日 | 大臣室会議に高速戦艦4案(A119、A120、A121、A122)を提案。いずれも従来の16インチ砲8門搭載を10門搭載に増備。以後の計画に踏襲。 |
大正6(1917)年〔39歳〕 | |
1月11日 | 大臣室会議に高速戦艦3案(A123、A124、A124')を提案。 |
1月14日 | 軍艦筑波、横須賀軍港内にて爆沈。9月1日除籍。 |
1月16日 | 軍艦筑波爆沈事件に関する査問委員(委員長、海軍少将加藤寛治)。7月25日、査定書提出。 |
3月15日 | ロシア皇帝二コライ2世退位(ロシア2月革命)。 |
3月31日 | 戦艦山城竣工。 |
4月1日 | 海軍造船大監(後の海軍造船・造機大佐)。 |
6月12日 | 戦艦陸奥の舷側甲鉄に傾斜甲鉄を採用する「陸奥変体」(A125)を提案。16インチ砲10門搭載。但し完成期日の関係で見送り。 |
7月14日 | 八四艦隊完成予算成立。 |
7月31日 | 戦艦陸奥、横須賀海軍工廠に製造訓令。 |
8月28日 | 戦艦長門、呉海軍工廠にて起工。 |
11月7日 | ペトログラードにソビエト政権成立(ロシア10月革命)。 |
大正7(1918)年〔40歳〕 | |
2月19日 | 大臣室会議に戦艦加賀検討案の4案(A126、A126A、A126B、A126C)を提案。 |
3月12日 | 八六艦隊完成予算成立。 |
3月27日 | 大臣室会議にて戦艦加賀(A127)案決定。舷側傾斜甲鉄採用・16インチ砲10門搭載艦が実現。 |
6月1日 | 戦艦陸奥、横須賀海軍工廠にて起工。 |
7月12日 | 戦艦河内、徳山湾で爆沈。9月21日除籍。 |
8月2日 | 政府、シベリア出兵宣言。 |
8月3日 | 全国的な米騒勳おこる。 |
8月22日 | 火薬関係事項調査委員(委員長、海軍大将村上格一)。大正8年11月29日、事務終了。 |
10月19日 | 東京帝国大学工科大学教授兼任。 |
11月11日 | 第1次世界大戦おわる。 |
大正8(1919)年〔41歳〕 | |
2月6日 | 改正帝国大学令公布(4月1日施行)。従来の各科大学を学部と改称。 |
3月13日 | 巡洋戦艦14案(B62、B62A~G、B62'、B63、B63'、B63"、B64、B64')のうちから。天城型(B64)を審議決定。実質的な高速戦艦。 |
3月28日 | 工学博士の学位を受く。 |
6月28日 | ベルサイユ講和条約締結。 |
9月22日 | 法令改正により、海軍造船大監あらため海軍造船大佐。 |
10月1日 | 4連装砲塔を提案。 |
11月9日 | 戦艦長門進水。 |
12月3日 | 艦砲射撃用標的研究委員会委員。 |
大正9(1920)年〔42歳〕 | |
2月16日 | 戦艦土佐、三菱長崎造船所にて起工。 |
3月12日 | 尼港事件。 |
5月31日 | 戦艦陸奥進水。 |
6月14日 | 軍港要港勢力標準調査委員会委員。 |
7月19日 | 戦艦加賀神戸川崎造船所にて起工 |
7月28日 | 八八艦隊完成予算成立。 |
9月4日 | 高速戦艦紀伊型(B65)の艦型決定。続いて八八艦隊掉尾4艦を計画。18インチ砲搭載検討。 |
10月1日 | 海軍艦政本部再編。海軍技術本部々員あらため海軍艦政本部々員。 |
11月25日 | 戦艦長門竣工式(於呉海軍工廠)に出席。 |
12月1日 | 48センチ(18.9インチ)試製砲、呉海軍工廠にて試射。 |
12月1日 | 第四部長に山本開蔵就任に伴い、計画主任を命ぜらる。 |
12月6日 | 巡洋戦艦赤城、呉海軍工廠にて起工。 |
12月16日 | 巡洋戦艦天城、横須賀海軍工廠にて起工 |
大正10(1921)年〔43歳〕 | |
2月11日 | 八八艦隊掉尾の四艦として、4万7500トン・18インチ主砲8門・30ノット戦艦を着想 |
4月1日 | 加藤友三郎海相、製艦費の緊縮を要望。 |
6月12日 | 後の巡洋艦夕張を意見具申。 |
8月4日 | 後の巡洋艦古鷹を意見具申。 |
10月12日 | 戦艦紀伊、呉海軍工廠に製造訓令。戦艦尾張、横須賀海軍工廠に製造訓令。 |
10月24日 | 戦艦陸奥竣工。 |
11月12日 | ワシントンにて海軍軍備制限会議開催。 |
11月17日 | 戦艦加賀進水式(於神戸川崎造船所)に参列。伏見宮博恭王に本艦概要を説明 |
11月22日 | 巡洋戦艦愛宕、神戸川崎造船所にて起工。 |
11月25日 | 皇太子裕仁親王、摂政就任。 |
12月5日 | 巡洋艦夕張、佐世保海軍工廠に製造訓令。 |
大正11(1922)年〔44歳〕 | |
2月5日 | 建造中の八八艦隊主力艦に建造中止を指示。但し、巡洋戦艦天城・赤城は空母に改造。 |
2月6日 | ワシントンで海軍軍備制限条約を締結。 |
3月17日 | 2等巡洋艦加古の建造を中止。 |
6月1日 | 海軍造船少将。海軍艦政本部出仕。ひきつづき第四部に勤務。 |
6月5日 | 巡洋艦夕張、佐世保海軍工廠にて起工。 |
7月1日 | 海軍艦政本部技術会議々員。 |
7月31日 | 未完成戦艦土佐の引渡式(於三菱長崎造船所)に参列。 |
10月31日 | イタリアにファシスト政権。 |
11月17日 | 巡洋艦加古(古鷹型)。神戸川崎造船所にて起工。 |
12月5日 | 巡洋艦古鷹、三菱長崎造船所にて起工。 |
12月30日 | ソビエト連邦成立。 |
大正12(1923)年〔45歳〕 | |
2月1日 | 条約型巡洋艦(後の妙高)、基本計画開始。 |
3月5日 | 巡洋艦夕張の進水式(於佐世保海軍工廠)に第四部長代理として参列。 |
4月18日 | 航空特別調査委員(委員長、海軍大将小栗孝三郎、5月25日、艦政本部長安保清種と交代)。11月19日事務終了。 |
5月16日 | 条約型巡洋艦妙高の成案を海軍技術会議に提出。 |
7月31日 | 巡洋艦夕張竣工。 |
8月25日 | 条約型巡洋艦妙高製造訓令。 |
9月1日 | 関東大震災。空母に改造予定の巡洋戦艦天城。横須賀海軍工廠にて大破。代替艦に戦艦加賀。 |
10月1日 | 計画主任を解任。同日、主としてワシントン条約下の列強建艦状況調査のため、欧米各国に出張を命ぜらる。 |
11月19日 | 製造手続き未済の八八艦隊主力艦。建造取り止め。 |
11月22日 | 日本郵船ロンドン線の香取丸にて横浜発。 |
大正13(1924)年〔46歳〕 | |
1月11日 | ロンドン到着。以後約1ヵ月、海軍省、グリニッジ海軍大学校その他を訪問、諸調査の準備。その後はフランス、アメリカをまわる。 |
4月14日 | 未成八八艦隊主力艦、建造取止め。但し、空母に改造の戦艦加賀。巡洋戦艦赤城を除く。 |
7月18日 | 東洋汽船サンフランシスコ線これや丸にてサンフランシスコ発。 |
8月3日 | 横浜に帰着。以後約1年、不遇の日々を送る。 |
10月8日 | フランス政府より贈与のコマンドール・ド・囗ルドル・ナシオナル・ド・ラ・レジオン・ドヌール勲章を受領、佩用允許。 |
10月25日 | 巡洋艦妙高、横須賀海軍工廠にて起工。 |
12月18日 | 摂政官に「列強軍艦設計ノ大勢二就テ」を進講。 |
大正14(1925)年〔47歳〕 | |
2月3日 | 海軍大臣に「欧米視察所見」を提出。 |
6月3日 | 海軍技術研究所(東京築1t船研究部長 |
7月1日 | 関東大震災で焼失の試aljjs代る小型試験水槽を業者に発注。 |
10月1日 | 小型試験水槽、船体模型の動揺試験を開始。抵抗試験は11月開始。 |
12月7日 | 海軍技術研究所長(前任者、野田鶴雄)。兼造船研究部長、兼海軍艦政本部技術会議々員。 |
昭和1(1926)年〔48歳〕 | |
11月1日 | 造船研究部長の兼務を解かる。 |
12月1日 | 海軍造船中将。 |
昭和2(1927)年〔49歳〕 | |
3月15日 | 金融恐慌はじまる。 |
4月5日 | 海軍航空本部設置。 |
8月30日 | 第2回海軍労働統計実地調査係長。 |
12月1日 | 計画主任に藤本喜久雄。 |
昭和3(1928)年〔50歳〕 | |
4月10日 | 官制改正により、海軍艦政本部技術会議々員あらため海軍技術会議議員。 |
4月14日 | 高速度艦船に関する研究に対し、帝国学士院より帝国学士院賞賞牌および賞金をうく。 |
6月4日 | 張作霖爆殺事件。 |
6月15日 | 長板の海上曳航抵抗試験を実施(~10月28日)。 |
7月15日 | 廃駆逐艦夕立の海上曳航抵抗試験に関し委員会を設置。廃駆逐盤夕立の海上曳航抵抗試験を実施(~8月18日)。 |
昭和4(1929)年〔51歳〕 | |
7月19日 | 廃駆逐艦「夕立」の海上曳航抵抗試験を実施(~7月20日)。 |
7月31日 | 金剛代艦私案(設計×)を海軍技術会議々長小林躋造に提出、計画主任藤本喜久雄の艦政本部案と対決。 |
10月24日 | ニューヨークの株式市場大暴落。世界大恐慌はじまる。 |
10月29日 | 東京にて万国工業会会議開催。造船部会(10月30日、31日、11月1日、4日、5日)に出席。初日の議長となり、"On the After―War Development of the Ships of the ImperialJapanese Navy"を発表。最終日も議長。 |
昭和5(1930)年〔52歳〕 | |
1月21日 | ロンドンにて、補助艦保有量制限の軍縮会議ひらく。 |
4月18日 | 日本産業協会・三笠保存会主催「日本海海戦二十五周年記念海卜空ノ博覧会」の第5部審査部長。 |
4月22日 | 1930年ロンドン条約締結。 |
4月25日 | 統帥権干犯問題おこる。 |
6月10日 | 加藤寛治軍令部長、帷幄上奏。 |
8月25日 | 第3回海軍労働統計実地調査係長。 |
9月5日 | 海軍技術研究所。東京築地より東京目黒に移転完了。 |
12月1日 | 海軍艦政本部出仕。 |
昭和6(1931)年〔53歳〕 | |
3月20日 | 東京帝国大学工学部教授を免ぜられ、同講師となる。 |
3月31日 | 予備役(退職金7855円、恩給年俸3124円)。 |
4月1日 | 三菱造船株式会社(後の三菱重工業株式会社)技術顧問。 |
9月18日 | 満州事変。 |
昭和7(1932)年〔54歳〕 | |
1月28日 | 上海事変。 |
2月2日 | ジュネーブ軍縮会議開催。 |
3月1日 | 満州国、建国宣言。 |
5月15日 | 五・一五事件。 |
7月30日 | 東京帝国大学教授。講師は解嘱。 |
昭和8(1933)年〔55歳〕 | |
1月30日 | ヒトラー、ドイツ首相に就任。 |
2月1日 | -在郷造船官として、溶接濫用を第四部長(玉沢煥)に警告。 |
3月8日 | 勅旨を以て帝国学士院会員。 |
3月27日 | 国際連盟に脱退通告。 |
昭和9(1934)年〔56歳〕 | |
3月12日 | 友鶴事件 |
3月31日 | 海軍省より文部省に対し、平賀を海軍省嘱託とする件、ロンドンの第2回国際水槽会議に日本代表とする件、差支えの有無を照会。海軍省より東京帝国大学総長に対し、平賀を海軍省嘱託とする件、差支えの有無を照会。 |
4月7日 | 友鶴事件により設置された臨時艦艇性能調査会(委員長は海軍大将加藤寛治)の事務嘱託。艦艇の復原性能改正対策を精力的に指導。 |
4月11日 | 三菱重工業株式会社会社発足。 |
4月24日 | ロンドンで開催の第2回国際水槽会議の日本代表として、文部省より欧州各国出張を命ぜらる。文部省よりアメリカ出張を命ぜらる。 |
5月16日 | 海軍省嘱託。 |
5月31日 | 船体復原性につき、天皇に進講。 |
6月5日 | 臨時艦艇性能調査会事務嘱託を解かる。 |
6月7日 | 日本郵船シアトル線日枝丸にて横浜発、アメリカ経由ロンドンへ向かう山月9日まで欧米出張。イギリス、フランス、スイス、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、アメリカをまわる)。 |
6月18日 | 第2次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉開始(~昭和10年1月20日)。 |
6月20日 | 臨時艦艇性能調査会、最終総会。 |
7月10日 | 第2回国際水槽会議ひらく(~7月13日)。開会式にひきつづきフルード肖像額贈呈式。日本側は、平賀が日本海軍・東京帝国大学・三菱重工業株式会社の代表として、山縣昌夫技師が逓信省代表として受領。論文発表(3名)の後、テームズ河畔船渠を視察、イギリス政府招待会。第2日の7月11日には、論文発表6名の1人として"Experimenta囗nvestigations on the Resistance of Long Planks and Ships"を発表。会議後、グリニッジ海軍大学校視察、イギリス造船協会晩餐会。第3日の7月12日には、論文発表(5名)の後、国立物理学研究所(NPL)の船型試験水槽などを視察、午後10時より大舞踏会。最終日の7月13日はサウサンプトン港見学会。 |
7月16日 | 軍事参議官・各長官会譲の席上、大角岑生海相より軍縮条約廃棄方針を明示。 |
10月1日 | 軍令部、大和型戦艦の計画を海軍艦政本部に口頭協議。 |
10月27日 | 日本郵船シアトル線の貨客船平安丸にてシアトル発。 |
11月9日 | 横浜帰着。ただちに大和型戦艦の基本計画に参画。 |
11月11日 | 造船協会に於でExperimenta囗nvestigations on the Frictional Resistance ofLong Planks and Ship Models"を発表。 |
昭和10(1935)年〔57歳〕 | |
2月18日 | 貴族院議員の菊池武夫、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃。 |
3月22日 | イギリス造船学会、第2回国際水槽会議にて発表の平賀論文に対し1934年度金牌授与を決定。 |
4月1日 | 海軍省事務嘱託を解かれ、海軍艦政本部の造船業務嘱託。東京帝国大学工学部長。 |
4月9日 | 美濃部達吉、不敬罪で告発され、主要3著書発禁。 |
4月10日 | イギリス造船協会金牌授与式、イギリス王立美術協会にて挙行。在英造船監督官飯河矗が代理受領。平賀は東京の祝賀会に出席。 |
8月3日 | 政府、国体明徴声明。 |
9月18日 | 美濃部達吉、貴族院議員を辞任。起訴猶予。 |
9月26日 | 第四艦隊事件。 |
10月19日 | 海軍高等技術会議(議長、海軍大将加藤寛治)、大和型戦艦基本計画概案を審議決定。平賀も出席。 |
10月21日 | 第四艦隊事件により臨時艦艇性能改善調査委員会(委員長、海軍大将小林踏造)設置。海軍艦政本部嘱託として改正対策を強力に指導。 |
11月1日 | 溶接制限を第四部長山本幹之助に建言。 |
12月9日 | 第2次ロンドン軍縮会議開催さる。 |
昭和11(1936)年〔58歳〕 | |
1月1日 | 平賀提案による「船体構造電気熔接使用方針」を制定。 |
1月15日 | 第2次ロンドン軍縮会議の日本全権、脱退を通告。 |
2月26日 | 二・二六事件。 |
5月18日 | 陸海軍大臣・次官の現役制復活。 |
11月25日 | 日独防共協定。 |
12月31日 | 平賀提案による「船体構造電気熔接使用方針」を制定。 |
12月31日 | ワシントン・ロンドン両軍縮条約失効。 |
昭和12(1937)年〔59歳〕 | |
3月29日 | ③計画予算成立。 |
7月6日 | 工学部船型試験水槽竣工。 |
7月7日 | 蘆構橋事件。 |
8月14日 | 文部省より満州国出張命令。 |
8月18日 | 満州国へ出発。 9月10日帰朝。 |
8月21日 | 戦艦大和、呉海軍工廠に製造訓令。 |
9月1日 | 矢内原忠雄(東京帝国大学経済学部教授)の「国家の理想」(『中央公論』)全文削除。 |
9月8日 | 戦艦武蔵、三菱長崎造船所に製造発注。 |
9月31日 | 矢内原忠雄(東京帝国大学経済学部教授)の「国家の理想」(『中央公論』)全文削除。 |
11月4日 | 戦艦大和、起工。 |
11月24日 | 東京帝国大学経済学部長の土方成美、教授会で矢内原忠雄の言論活動を非難 |
12月1日 | 矢内原辞表提出。 |
昭和13(1938)年〔60歳〕 | |
2月1日 | 東京帝国大学経済学部の大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎ら教授グループ、検挙さる。 |
2月16日 | 東京帝国大学工学部附属綜合試験所、地鎮祭 |
3月22日 | 教授グループ事件に関し、東京帝国大学評議会。 |
3月29日 | 戦艦武蔵起工 |
3月31日 | 依願免本官(東京帝国大学工学部教授を退職)。 |
4月1日 | 国家総動員法公布。 |
4月18日 | 逓信省、超優秀船建造委員会を設置 |
7月28日 | 文相荒木貞夫、帝国大学総長公選廃止を要望。 |
8月5日 | 東京帝国大学名誉教授。 |
8月20日 | 中華民国出張を命ぜらる(文部省)。 同日出発、9月10日帰朝。 |
10月5日 | 河合栄治郎(東京帝国大学経済学部教授)の著書4冊発禁。 |
11月15日 | 河合事件に関し、東京帝国大学評議会。 |
12月1日 | 中華民国の東亜文化協議会より理事・評議員を聘嘱。 |
12月20日 | 同上より副会長を聘嘱。理事・評議員は自然解嘱。 東京帝国大学第13代総長。 |
12月31日 | 三菱重工業技術顧問、解嘱。 |
昭和14(1939)年〔61歳〕 | |
1月14日 | 紀元2600年奉祝会評議員。 |
1月24日 | 講書始にて洋書進講控。 |
1月27日 | 経済学部河合栄治郎、土方成美両教授の休職処分を文相に上申。 (1月31日、河合教授休職処分。2月13日、土方教授休職処分) |
4月18日 | 東京帝国大学臨時附属専門部の官制公布(6月15日開校式)。 |
5月1日 | 東亜研究所顧問。 |
10月24日 | 東京帝国大学工学部附属綜合試験所の官制公布 |
昭和15(1940)年〔62歳〕 | |
1月23日 | 講書始洋書の部にて「最近軍艦商船の進歩」を進講。 |
3月8日 | 後備役 |
4月23日 | 河合栄治郎の出版法違反、東京刑事地方裁判所第1回公判。以後、公判20回におよぶ。 |
5月14日 | 工学部航空工学科の風洞実験室、義勇財団海防義会より贈呈式。 |
8月8日 | 戦艦大和の進水式(於呉海軍工廠)に参列 |
9月26日 | 工学部附属綜合試験所竣工式。 |
9月27日 | 日独伊三国同盟。 |
10月7日 | 河合栄治郎に無罪判決。検事局控訴(昭和16年10月、控訴院有罪判決、罰金300円。河合上告、昭和17年2月、大審院上告棄却、有罪確定)。 |
10月8日 | 天皇、東京帝国大学に行幸。 |
10月12日 | 大政翼賛会発会式。 |
11月1日 | 戦艦武蔵の進水式(於三菱長崎造船所)に参列 |
11月10日 | 紀元2600年式典。 |
昭和16(1941)年〔63歳〕 | |
4月1日 | 東京帝国大学全学会発足。 |
4月13日 | 日ソ中立条約調印。 |
4月16日 | 日米交渉、正式にはじまる。 |
4月20日 | 東京帝国大学全学会鍛練部、検見川農耕地にて総長鍬入れ式。 |
9月6日 | 御前会議、10月下旬を目途に対英米戦の準備完成を決定。 |
9月21日 | ⑤計画商議。 |
10月16日 | 大学・専門学校などの修学年限を臨時短縮(16年度は3ヵ月短縮、17年度は大学予科・高等学校を加え6ヵ月短縮)。 |
11月5日 | 御前会議、日米交渉不成立の際は12月初頭武力発動を決定。 |
11月26日 | 東京帝国大学に東洋文化研究所設置の官制公布 |
12月1日 | 御前会議、対英米蘭開戦を決定。 |
12月8日 | 太平洋戦争はじまる。 |
12月16日 | 戦艦大和竣工。 |
昭和17(1942)年〔64歳〕 | |
2月7日 | 財団法人東洋文庫評議員。 |
3月24日 | 東京帝国大学官制を改正、第二工学部の設置を制定。 |
4月18日 | アメリカ機動部隊、日本本土を初空襲。 1機は大学上空を低空擦過。 |
8月5日 | 戦艦武蔵竣工。 |
8月5日 | ミッドウェー海戦。 |
8月7日 | アメリカ軍、ガダルカナル島に上陸。 |
8月7日 | ミッドウェー海戦。 |
8月10日 | 巡洋艦加古、ソロモン海域で被雷沈没。 |
10月12日 | 巡洋艦古鷹、サボ島沖夜戦で沈没。 |
11月1日 | 法令改正により、海軍造船中将あらため海軍技術中将。 |
12月5日 | 第二工学部開学式を挙行 |
12月20日 | 東京帝国大学総長に再任。 |
昭和18(1943)年 | |
2月1日 | 日本軍、ガダルカナル島より撤退(第1次)。 |
2月4日 | 第2次撤退 |
2月7日 | 第3次撤退 |
2月11日 | 東京帝国大学医学部附属病院耳鼻咽喉科に入院。 |
2月15日 | 同柿沼内科に転院。 |
2月17日 | 午前8時55分、嚥下性肺炎により逝去。 行年64歳11ヵ月。とくに親任官の待遇を賜う。 男爵、旭日大授章を受く。 |
2月18日 | 脳保存のため、病理学教室緒方知三郎教授の執刀により解剖。 納棺のうえ、東京都世田谷区代田の自宅階下8畳の間に安置、近親者通夜。 法号「護国院殿潤誉法性誠道大居士」。 |
2月19日 | 出棺、幡ヶ谷火葬場にて荼毘。22日まで、友人門下生こもごも通夜。 |
2月23日 | 午後1時30分より午後2時50分まで、東京帝国大学安田講堂にて大学葬。 |
3月23日 | 多摩墓地に埋葬。 |