『改進新聞』は明治時代中期に発行された絵入りの小新聞※1で、代表的な改進党機関紙の一つである。発行所は東京京橋区の三益社、社主は改進党員でもある寺家村逸雅。
明治11(1878)年創刊の『有喜世新聞』が発行停止となったのち再発足した『開花新聞』が明治17(1884)年に改題、4頁建ての絵入日刊紙として『改進新聞』が創刊された。同じく代表的な改進党機関紙である大新聞※2『郵便報知新聞』の姉妹紙として編集上も提携し、両紙には共通の記事も見られる。
総振り仮名、口語調という平易な文体で社説や政治評論を掲載し、挿絵入りの小説や風刺画も掲載する『改進新聞』の編集方針は、政治的関心が高まる時代に幅広い層の支持を獲得、最盛期には東京で最大となる年間発行部数を誇り、400万部を数えたといわれる。また明治18(1885)年12月ごろには、風刺画などでも著名なフランス人画家ジョルジュ=ビゴーが入社し、挿絵を描き人気を得ている。
附録も豊富に発行され、明治23(1890)年の議会開設時には鮮明な石版画による第一回両議院議員全員の肖像を発行した。さらに一時的ではあるが売りである連載小説の挿絵に彩色が施されており、日刊紙への彩色という試みについては、当文庫初代主任である宮武外骨によって「三色版輪転機発明前の企画(空前にして絶後)」と記された資料が残っている。
しかし明治20年代後半、報道重視となっていった新聞の潮流に乗ることができず、明治27(1894)年7月に終刊。翌月再び『開花新聞』と改題し発行されるが、社主寺家村の死去もあり1年余りで廃刊となった。
※1:小新聞(こしんぶん)とは 明治前期に発行されていた小型(現在のタブロイド判に近い)の新聞の総称。大きさも小さく、安価であり、庶民を対象にした口語体仮名付きの平易な文章で世間の出来事を報道。『読売新聞』、『朝日新聞』など数万部を売り上げたものも多い。
※2:大新聞(おおしんぶん)とは 明治前期に発行された政論新聞の総称。文語体の政治議論は知識人向けであり、ブランケット版に相当する大きな紙面から大新聞と呼ばれた。『自由新聞』、『東京日日新聞』など各新聞の主筆が記者として論調を形成、政党機関紙も数多い。
(参考文献)
- 土屋礼子. 「改進新聞」. 『明治時代史大辞典』. 1. 宮地正人, 佐藤能丸, 櫻井良樹編. 吉川弘文館, 2011, p.468.
- 土屋礼子. 「大新聞」. 『明治時代史大辞典』. 1. 宮地正人, 佐藤能丸, 櫻井良樹編. 吉川弘文館, 2011, p.348.
- 土屋礼子. 「小新聞」. 『明治時代史大辞典』. 1. 宮地正人, 佐藤能丸, 櫻井良樹編. 吉川弘文館, 2011, p.984.
- 塚本三夫. 「改進新聞」. 『國史大辭典』. 3. 国史大辞典編集委員会編. 吉川弘文館, 1983, p.62-p.63.
- 西田長寿. 『明治時代の新聞と雑誌』. 増補版, 至文堂. 1966, (日本歴史新書).