古代中世史料の解説

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「甲州法度之次第」(甲:2:3693)

 甲斐国(現在の山梨県)に本拠を持った戦国大名武田晴信(信玄)が、 その支配する領国を統治するために制定した分国法。家臣に対する種々の規律を主内容とし、 全体的に隣国駿河の今川氏の「今川かな目録」の強い影響が認められる。
 「甲州法度之次第」と呼ばれるものには大別して26箇条本と55箇条(プラス追加2箇条)本の二種の伝本があり、 前者が天文16(1547)年6月に成立した原型、それを基に増補改訂を経て55箇条に整理された後、 天文23(1554)年5月にさらに2箇条が追加されて成立したのが後者、と考えられている。 『甲陽軍鑑』に採録されるなどして世上に多く流布したのは後者の系統だが、 この系統に属する諸本にはなお種々の異同があり、 流布本が成立するまでにはさらに若干の経緯があったと推測されるものの、詳細は明らかではない。
 法制史資料室所蔵本は流布本系の代表的な一本で、冒頭の表題部分に円形重郭龍文の朱印判一顆が捺され、 末尾には「天正八庚辰年二月十七日書之」とある。冒頭の印判は信玄が天文12(1543)年以降用い、 天正元(1573)年の信玄死後は嗣子勝頼が天正10(1582)年の武田氏滅亡に至るまで襲用したものである。 従って該本は武田勝頼のもとで作成されたものと認められ、当時通用の「法度」を伝える最善本と評価される。 佐藤進一・池内義資・百瀬今朝雄編『中世法制史料集 第三巻 武家家法I』(岩波書店 1965年) 所収「甲州法度之次第」の底本として用いられるなど、学界においても「甲州法度之次第」の標準的なテクストとして認知されている。 鳥の子紙27枚を継ぎ合わせ、裏打ちを施して成巻され、第一紙裏に「東京帝国大學圖書印」一顆が捺されている。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


「周防国與田保古文書」(甲:2:1176)

 中世東大寺領をめぐる相論(訴訟)の関係文書を継ぎ紙に書写し、案文(控え)として成巻したもので、別に掲げる「美濃国茜部庄古文書」と併せ都合二巻が一函に収められている。法学部法制史講座の初代教授を務めた宮崎道三郎の旧蔵書で、各巻の端裏下部には「宮崎蔵書」朱印が捺されている。『御前落居記録』『御前落居奉書』などとともに、関東大震災で壊滅的な被害を蒙った法制史関係蔵書の再建のために寄贈された史料典籍群の一部である。
 周防国玖珂郡與田保(現在の山口県柳井市付近)は周防国衙領だが、鎌倉時代の周防国は東大寺造営料国とされたため、與田保は東大寺領として扱われた。本資料は、與田保公文職に関する建保5年(1217)から正安3年(1301)に至る17点の文書案文を書き継いだもので、鎌倉後期の相論に際して関係文書を写し整えたものと考えられる。本資料の原拠文書の所在は知られないが、かつて東大寺に伝存したものであろう。
 なお、法制史資料室には、これら二巻の他にも、東大寺に由来する文書若干を蔵する。東大寺伝来文書には明治になって諸事情から寺外に流出したものが少なくなく、これらはその例に数えられる。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


「美濃国茜部庄古文書」(甲:2:1185)

 中世東大寺領をめぐる相論(訴訟)の関係文書を継ぎ紙に書写し、案文(控え)として成巻したもので、別に掲げる「周防国與田保古文書」と併せ都合二巻が一函に収められている。法学部法制史講座の初代教授を務めた宮崎道三郎の旧蔵書で、各巻の端裏下部には「宮崎蔵書」朱印が捺されている。『御前落居記録』『御前落居奉書』などとともに、関東大震災で壊滅的な被害を蒙った法制史関係蔵書の再建のために寄贈された史料典籍群の一部である。
 美濃国厚見郡茜部庄(現在の岐阜市付近)は、9世紀に成立した東大寺領荘園。鎌倉後期の地頭長井氏との相論で知られるが、本資料は平安後期、長久元年(1040)から永久4年(1116)に至る、公事(年貢以外に課される様々な負担)の免除に関する先例を示す16点の文書を写し継いだものである。ここに収められたものと同内容の案文が正倉院現蔵「東南院文書」及び内閣文庫現蔵「美濃国古文書」中に散在しており、本資料は、かつて東大寺に伝存したそれらの案文(ないしはその原拠文書)に拠って作成されたものであろう。
 なお、法制史資料室には、これら二巻の他にも、東大寺に由来する文書若干を蔵する。東大寺伝来文書には明治になって諸事情から寺外に流出したものが少なくなく、これらはその例に数えられる。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


「城東寺文書」(乙:7:478)

 かつて京都東郊にあった城東寺に伝来した文書。城東寺は天台宗寺院として開創されたが、応仁の乱でいったん荒廃した後、禅宗寺院として再興され建仁寺大龍庵末、ついで南禅寺楞厳院の末寺となったと伝えられる。『拾遺都名所図会』(天明7年[1787]刊)に「建仁寺町松原乃南にあり、本尊丈六薬師佛を安置す。傳教大師の作也。應仁の乱後、此尊像破壊して纔に御首計残りありしを、後世作り添て、今は丈六の像となし、小堂にあり」とあるように、故地は六波羅蜜寺の西方、「薬師町」の町名に痕跡を残すが、『花洛名勝図会』(元治元年[1864]刊)には「綸旨喜捨等の古文書を傳ふといふ。今は形ばかりの堂遺りて、城東寺の額を掲く。什物ハ本寺に預かれりと」とあって、幕末までには「形ばかり」となっていたようである。本文書は宮崎道三郎旧蔵、関東大震災の後に東京帝国大学法学部に寄贈された。宮崎が入手するまでの経緯は不明だが、おそらくは『花洛名勝図会』のいう「綸旨喜捨等の古文書」がこれにあたり、什物類とともに「本寺」南禅寺楞厳院に預けられていたのであろう。新田一郎「史料紹介・東京大学法学部法制史資料室所蔵「城東寺文書」」(『国家学会雑誌』108巻11・12号1995)に翻刻を掲げる。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


「参鈷寺文書」(乙:7:465)

 京都西方の西山にある参鈷寺(三鈷寺)に伝来した文書。参鈷寺は浄土宗の念仏道場として創建されたが、後に天台・真言・律・浄土の四宗兼学道場となり、現在は西山宗総本山として一派をなしている。本史料は文書綴と冊子本とからなり、文書綴はもともと貼り継いで巻子仕立てになっていたと思われるが、一部が切り取られて分散し、現在はところどころ切断された文書綴が合わせ巻かれている。おそらくは明治初年に、寺外に流出した文書類を京都の古書肆聖華房が入手し、一部は複数の収集家に切り分けられ、残余が宮崎道三郎の手に渡ったものと思われる。文書綴を謄写した冊子本は、寛政年間に白河藩主松平定信の命によって書写され、定信の子定永の桑名転封に伴い桑名藩校立教館に伝えられたもので、近代に至り石谷上人(国立博物館初代館長町田久成)の手を経て聖華房が譲り受け、明治27年(1894)に文書綴とともに宮崎が入手、併せて関東大震災後に東京帝国大学法学部に寄贈された。冊子本については、元禄年間に水戸徳川家の『大日本史』編纂事業と関わって作成された彰考館本など同類異本が数点伝存しており、文書群の原状を復元する手がかりとなる。植田信広「東京大学法学部法制史資料室所蔵三鈷寺文書」(『古文書研究』17・18合併号1981)に、文書の翻刻と解説を載せる。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


「樺山家文書」(法制史::19)

 樺山家文書は、薩摩島津家の第五代・貞久の弟・資久を祖とする樺山家の相伝文書。本資料室が所蔵するのはその一部だが、室町時代の南九州における政治情勢や所領経営の状況を読み取り得る史料である。昭和9年(1934)に東京大学史料編纂所が影写本を作成した時点では鹿児島の樺山家が所蔵していたことが確認でき、その後に原蔵者から流出したと考えられる。鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ5』(1995年)が、東京大学史料編纂所影写本を底本に「樺山文書 一」として翻刻している。
 なお、『室町時代起請文写本』として本資料室が収蔵しているのは、樺山家文書のうち東京大学史料編纂所が現在所蔵する「伝家亀鏡」の一部の写本である。「伝家亀鏡」原本と対照すると、起請(神仏への誓約)文言を含む契状類を選択的に謄写していることが窺える。

(大学院法学政治学研究科 准教授 酒井智大)

 


『九條公爵家旧蔵古典籍』

 いわゆる「五摂家」のひとつ九条家に伝来した古文書古典籍の主要部分は、現在、宮内庁書陵部に収蔵されているが、古典籍の一部は、昭和初年以降売却されるなどして各処に分散している。本史料群はその一部であり、昭和4年(1929)11月に市場に出品され落札、翌年に東京帝国大学法学部に納められた。いずれもよく知られた史料の近世写本で、内容は既に他の伝本に拠って翻刻出版されているものだが、九条家本は比較的良質の写本とみられ、これによって既刊本を補訂すべきところもある。

「令義解」(甲:2:966)
 養老令の官撰注釈書、清原夏野ほか撰。「新訂増補国史大系」に校訂本を収める。本史料は金沢文庫本系に属する転写本である。

「園太暦」(甲:2:948)
 南北朝期の公卿洞院公賢(正応4年[1291]-延文5年[1360])の日記。応長元年(1311)から延文5年までの記事と目録から成る。長享元年(1487)から翌2年にかけて甘露寺親長が抄写したものが転写されて各処に伝えられ、その翻刻本が續群書類従完成会から刊行されている。本史料も同系の転写本で、冊により萬治元年(1658)から3年にかけての校合奥書があり、また第1冊の末尾には元禄2年(1689)正月18日に一校を遂げた旨の九条輔実の奥書がある。

「親長卿記」(甲:2:952)
 室町時代の公卿甘露寺親長(応永31年[1424]-明応9年[1500])の日記。文明3年(1471)から明応4年までの記事を収める。「史料大成」「史料纂集」によって翻刻刊行されている。

「元長卿記」(甲:2:953)
 室町時代の公卿甘露寺元長(親長の子、康正2年[1456]-大永7年[1527])の日記の写本。第1冊に御教書案・勅裁案を収め、第2冊以降に延徳2年(1490)から大永5年までの日記を収めるが、第8冊は表紙に「元長卿記」とあるものの内容は後深心院関白記(近衛道嗣の日記)永和5年記であり、九条家における整理の際に錯入したものであろう。日記は「史料纂集」によって翻刻刊行されている。

「令集解」(甲:2:1147)
 諸家による養老令注釈を、明法家惟宗直本が集成したもの。「新訂増補国史大系」に校訂本を収める。本史料は、慶長年間に清原(船橋)秀賢によって書写された通称「船橋本」の系統に属する近世写本である。

「康富記」(甲2:954)
 室町時代に権大外記を務めた中原康富(応永6年[1399]-長禄元年[1457])の日記。応永8年(1401)から康正元年(1455)までの記録を収める(一部は散逸し欠落)が、首部は康富の父英隆の日記が併せられたもので、応永22年以降分が康富の日記と考えられている。朝廷官司領の経営や、武家奉行人との文化的交流など、室町時代の京都社会について多彩な情報を伝える。自筆原本は国立国会図書館所蔵、『増補史料大成』に翻刻刊行されている。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田一郎)