古代中世法制史料の解説

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「御前落居記録」(甲:2:523)及び「御前落居奉書」(甲:2:524)

 室町幕府第六代将軍足利義教のもとで行われた政務上の案件処理手続である「御前沙汰」の記録史料。「御前沙汰」においては、通常二人一組で案件を担当する奉行人から、1案件処理の原案を将軍に上程して裁可を仰ぎ、2将軍の裁可を得たものについては「奉行人奉書」と呼ばれる文書を作成して関係者に執達する。1の手続を記録したものが『御前落居記録』(以下「記録」)、2の文書の発給手控えとして残されたものが『御前落居奉書』(以下「奉書」)である。現代に伝存するのはいずれも永享2年(1430)から同4年(1432)のもので、法制史資料室所蔵の「記録」は義教自身が花押(サイン)を据えて裁可を与えた原本、「奉書」は遅くとも文明年間(1469-1487)までに筆写された写本と考えられている。「記録」には72件、「奉書」には118件が記録されている。両者の内容は必ずしも相対応するものではなく、いずれにせよこの時期の「御前沙汰」の全貌が記録されているわけではないが、中期室町幕府の「裁判」を研究する上での最重要の史料である。桑山浩然校訂『室町幕府引付史料集成 上巻』(近藤出版社1980)に翻刻収録されている。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『令義解・令集解写本・刊本群』

 養老令の注釈書。『令義解』は、「数家の雑説を集め一法の定準を挙げしめる」すなわち令解釈を統一公定すべく企図された官撰注釈書で、右大臣清原夏野を首班とし明法家や文人貴族らが加わった編纂チームによって天長10年(833)に完成、翌承和元年(834)に淳和天皇の詔によって令本条に準ずるものとして施行された。『令集解』は、『令集解』を踏まえつつ諸々の私注の集成を意図した惟宗直本私撰の注釈集、9世紀後半の成立と考えられている。いずれについても数多くの写本が伝存し、それらを基とした校訂本が「新訂増補国史大系」によって刊行されている。皆川完一・山本信吉編『国史大系書目解題 下巻』(吉川弘文館2001)に収める「令義解」(石上英一執筆)、「令集解」(水本浩典執筆)参照。『令集解』諸写本の系統については水本浩典「『令集解』諸本の系統的研究」(水本『律令注釈書の系統的研究』塙書房1991)参照。

「令義解」(甲:2:966)
 九条公爵家旧蔵本。金沢文庫本の系統に属する転写本。昭和4年の九条家本売り立ての際に東京帝国大学法学部に購入された。

「令集解」(甲:2:100)
 表紙題箋に「令集解古寫甲本」とある。伝存の経緯は不詳だが、榊原芳野旧蔵本(国立国会図書館現蔵)と同一写本が分割されたものか(水本「『令集解』諸本の系統的研究」参照)。

「令集解」(甲:2:101)
 表紙題箋に「令集解古寫乙本」とある。伝存の経緯は不詳。

「令集解」(甲:2:342)
 表紙題箋に「令集解雲烟家本」とある。「子孫永保雲煙家蔵書記」印が捺されていて、近世後期の書画商安西雲煙の旧蔵書と知られる。大正13年(1924)に古書肆より購入された。

「令集解」(甲:2:670)
 明治4-5年(1871-72)に刊行された木活字本。校訂者石川介については渡辺滋「石川省斎による『令集解』刊行とその歴史的意義」(『古代学研究所紀要』6号2008)参照。宮崎道三郎旧蔵本で、宮崎による書入れがある。この書入れは、明治31年から36年にかけて、宮崎はじめ三浦周行・和田英松・中田薫らが参加して『令集解』を会読した「古代法研究会」の記録である。会読は、宮崎に事情あって中絶した後、三浦のもと國學院に場を移して続けられ、その成果は三浦による書入れ本(本史料と同じく石川介校本。国立国会図書館現蔵)に記録され、『校訂令集解』(国書刊行会1911)の編纂に利用された。本史料をこれと対照することによって、会読の初期の様子の一端を窺い知ることができる。

「令集解」(甲:2:671)
 表紙題箋に「令集解宮崎本」とある。宮崎道三郎旧蔵本で、「古代法研究会」における会読に際し参照され、国書刊行会本『校訂令集解』の校合に略称「宮本」として用いられた。「新訂増補国史大系」本『令集解』の校合にも同じく「宮本」として参照されている。関東大震災の後に東京帝国大学法学部に寄贈された。

「令集解」(甲:2:1147)
 表紙題箋に「令集解九条家本」とある。旧摂家九条公爵家に伝わり、昭和4年(1929)の九条家本売り立ての際に東京帝国大学法学部に購入されたもの。慶長年間に清原(船橋)秀賢によって書写された「船橋本」の系統に属する。

「令集解」(甲:2:1155)
 表紙題箋に「令集解榊原本」とある。「船橋本」の系統に属する写本で、巻38末尾には元和元年中院通村校合奥書がある。各冊に「吏部大卿忠次」蔵書印が捺されており、近世前期の大名榊原忠次の旧蔵書と知られる。

「令集解」(甲:2 :1355)
 2冊を存するのみだが、唐獅子文様の蔵書印が捺されており、近世後期の国学者橘守部の旧蔵書と知られる。昭和8年(1933)に古書肆より購入された。

「令集解」(甲:2:2043)
 三浦周行旧蔵本。「船橋本」の系統に属する写本。三浦歿後の昭和14年(1939)に古書肆より購入された。

「令集解」(甲:2:2364)
 花山院定誠による万治年間の書写本の系統に属する。書写者・時期や伝本経路など未詳。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


「[足利直義裁許状]斎藤彦三郎秀定申近江国朝日郷内久米名田畠事」(標本乙::576)

 室町幕府初代将軍足利尊氏の弟・直義が、貞和四年(北朝年号、南朝は正平三年、1348)に発給した裁許状。「下知如件」という書き止め文言から、下知状とも呼ばれる。 内容は、自己の知行する所領につき親族からの「押妨」を排除するよう求める斎藤秀定の訴えを受け、秀定の知行の正当性を確認するもの。足利直義はこの時期、尊氏から政務の大部分を委ねられており、直義のもとに置かれた内談方が訴訟の審理を担った。内談方での審理の結果(裁許)は、直義が花押(自署の代わりに書く記号)を据えて裁可した下知状として、当事者へ交付された。
 足利直義下知状の花押は年を逐って大きくなっており、直義が持つ政治的自意識の肥大化に比例する可能性が指摘されている。貞和四年は、尊氏の執事である高師直と直義が抗争し幕府を分裂せしめる観応の擾乱の前夜にあたり、本文書ではその袖(右端)に、巨大化した直義花押を確認できる。
 「祇園社記」御神領部第五(八坂神社社務所編『八坂神社記録 下』(1923年)に翻刻収録)に本文書の写が伝えられており、東京大学史料編纂所編『大日本史料 第六編之十二』(1913年)173頁がこれに基づきしかるべき校訂を加え翻刻している。

(大学院法学政治学研究科 准教授 酒井智大)

 


「長禄御禁制条目」(甲:2:1344)

 室町幕府が長禄元年(1457)12月5日付で制定した徳政禁制。三箇条のうち第二条以下は、借銭の返済免除(徳政)を禁じつつ、「銭主」(債権者)に対しては債権保護の代償として債権額の五分の一(分一銭)を幕府へ納入するよう命じ、納入しなければ債権を保護しない旨を定める。享徳三年(1454)より導入された分一徳政令では、借主による分一銭の納入を条件に借銭の返済が免除されたが、本法令はこの分一銭を債権者保護に転用した分一徳政禁制の初例と位置づけられる。第一条で「棄破」されている「合銭」とは、土倉・酒屋など金融業者へ投資のため預け入れられた銭と考えられ、本法令は全体として金融業者の保護を主眼とする(百瀬今朝雄「文明十二年徳政禁制に関する一考察」史学雑誌66巻4号、1957年)。
 国立公文書館所蔵「蜷川家文書」にも伝存しているが(東京大学史料編纂所編『大日本古文書 蜷川家文書之一』(1981年)39号)、字句に若干の異同が見られ、対校が佐藤進一・池内義資編『中世法制史料集 第二巻 室町幕府法』(岩波書店、1957年)に翻刻収録されている(追加法257~259)。

(大学院法学政治学研究科 准教授 酒井智大)

 


「文亀御禁制条目」(甲:2:1345)

 文亀元年(1501)閏六月に細川京兆家当主の細川政元が定めた家法の写。細川京兆家とは、室町幕府管領家の一つで摂津・丹波・讃岐などの守護を務めた細川氏惣領家で、当主は右京大夫(右京兆)の官途を代々名乗った。
 明応二年(1493)に細川政元は、日野富子や伊勢貞宗と共謀し、第十代将軍足利義材(義稙)を追放、新たに足利義澄を将軍に擁立して、畿内の最高実力者となった(明応の政変)。政元には実子がなく、前関白九条政基の子で足利義澄とも母方の従兄弟にあたる聡明丸(後の細川澄之)が養子に迎えられていたが、同族の細川讃州家(阿波守護家)から新たに養子となった細川澄元へ家督継承者が変更されるといった混乱の末、永正四年(1507)に家臣団内の澄之派が政元を殺害するに至る。
 九条政基の日記『政基公旅引付』(宮内庁書陵部所蔵)文亀元年8月22日条には、聡明丸への家督委譲を表明するとともに家臣団に宛ててこの家法を制定した経緯が記されており、規定の内容からも、家臣団の統制を主眼としていることが確認できる。
 『政基公旅引付』のほか『文亀年中記写』(国立公文書館所蔵)にも、字句に異同のある写が伝わっており、それらについては末柄豊「『後鑑』所載「南都一条院文書」について」(科学研究費補助金研究成果報告書『興福寺旧蔵史料の所在調査・目録作成および研究』2002年)の考証がある。いずれも佐藤進一・百瀬今朝雄編『中世法制史料集 第四巻 武家家法Ⅱ』(岩波書店、1998年)に翻刻収録。

(大学院法学政治学研究科 准教授 酒井智大)

 


『御成敗式目関係古写本群』

『御成敗式目』および関連の写本類。『御成敗式目』は、貞永元年(1232)に時の執権北条泰時の主導のもと、鎌倉幕府に従う御家人たちに成敗(事案の判断・処分)の方針を示すべく編まれたテクストである。「中世武家法の基本法典」という説明がしばしば与えられるように、後続の「武家」によって規範として仰がれたことから、数多くの写本が残され、また鎌倉後期以降には儒学者らによる注釈書も著された。さらに中世後期から近世には木版刷りで印刷刊行されて初学者の読み書き教本として用いられることもあった。本学総合図書館に穂積陳重が収集した写本・版本のコレクションを蔵するが、法制史資料室及び法学部図書室所蔵の写本・刊本はささやかながらこれを補完するものである。

 

「御成敗式目」(甲:2:1429):清原家が伝え家説を以て訓点を加えた「清家本」を底本として享禄2年(1529)に小槻伊治によって刊行された印本(いわゆる「享禄本」)を、天正18年(1590)に祐圓が書写したもの。51箇条と起請文、小槻伊治の跋文と祐圓の書写奥書を載せる。その後に異筆で「寛永八念十月日光臺院内泉順□」とあって、寛永8年(1631)に高野山に伝えられたものかと思われる。

「御成敗式目」(甲:2:1870):冒頭に「鳥養宗慶筆」、巻末には「天正拾年三月二日写之畢」との書写奥書があり、天正10年(1582)の書写と知られる。鳥養(鳥飼とも)宗慶は摂津国の人。尊円流の流れを汲む飯尾流の書を学び、後に一派を立てて鳥飼流の祖となる。幕末の古筆家神田道伴による極札(鑑定書)が添えられている。

「御成敗式目」(甲:2:3348):末尾書写奥書に「彦六左衛門常房」として花押が据えられており、また「任御所望仕候/隠岐入道殿」とあることから、「隠岐入道」の依頼によって飯尾常房が文安元年(1444)に書写したものと考えられる。飯尾常房は室町幕府奉行人飯尾氏の一族で細川家家臣、尊円流の書を学び飯尾流の開祖とされる。古筆了仲・了意および神田道伴による極札(鑑定書)が添えられている。

「式目抄」(甲:2:1346):『御成敗式目』に語句の注釈を施した式目注釈書。式目追加34箇条に加え是円房道昭による正和元年(1312)の跋文を載せることから「是円抄系」と呼ばれる系統の一本である。奥書によれば弘治2年(1556)の成立、同じ系統に属する「芦雪本御成敗式目抄」が天文22年(1553)の奥書を持ち時期的にも近い。両本を比較すると注釈本文に共通するところが多いが細注には異なる箇所が少なくなく、共通の祖本から分岐したものと見られ、「芦雪本」の成立過程を考える材料ともなる。

「式目之追加」(甲:2:4144):奥書によれば天文3年(1534)写。『御成敗式目』写本には、51箇条に「追うて書き加え」られた「追加」34箇条を併せ載せるものが少なくないが、本史料はその「追加」部分を独立した一本として書写したものである。「追加」に続けて是円房跋文を載せており、是円抄系の式目注釈書から派生したものであろう。その後に式目の起草に参与した清原教隆ら6人の名を掲げて説明を加えるくだりは「御成敗式目栄意注」とほぼ同文であり、注釈の系統を考える際の参考になるかもしれない。巻頭に「宝玲文庫」の蔵書印があり、英人収集家フランク・ホーレーの手を経たものと知られる。

「新御式目」(甲:2:1100):弘安7年「新御式目」38箇条以下都合144箇条の「追加」を載せる。内容は『史籍集覧』『續群書類従』底本に用いられた内閣文庫蔵本と同じだが、字句に若干の差異がある。関東大震災の後に寄贈された宮崎道三郎旧蔵書のうち。題箋に「称意館蔵本」とあり、京都の医家吉田意庵の蔵書に由来するものと見られるが、称意館の蔵書印がなく、蔵本の転写本であろう(宮崎旧蔵書には他にも由来を同じくすると見られるものがある)。ところどころに、宮崎のものと覚しき朱字書き込みがある。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)