資料の解説 > 近世史料の解説
「大坂町中江出寺請状諸宗寺々五人組判形帳」(甲:2:1291)
大坂町中(現在の大阪市主部)及び近郊の寺院の判形(印鑑影)を、宗派別さらに「五人組」と呼ぶ寺院グループごとに集録した台帳。元禄8年(1695)に大坂町奉行所において作成され管下の町々に頒布されて、寺院から発行される証文類の確認の必要に備えたものと思われる。冊末には、宗旨手形や家数証文の書式雛型、奉行所から町々に宛てられた触書などの関係書類が収められている。法制史資料室所蔵本は南農人町壱丁目に下付され町年寄の手許において管理使用されていたものだが、同タイトルで淡路町弐丁目に伝存したものが大阪府立図書館に所蔵されており、「おおさかeコレクション」*で閲覧できるため比較対照に好便である。
*https://da.library.pref.osaka.jp/content/detail/01-0001695(最終確認2024年1月12日)
頒布後に寺の改称・改印があった場合にはその都度注記修正が施されて明治初年に至っており、情報を更新しながら170余年にわたり実務の用に供されていたことが窺える。注記修正に際して木版刷りの紙片を貼付した場合があり、寺院からの届出を受けた奉行所から各町に一斉配布されたのであろう。法制史資料室所蔵本と大阪府立図書館所蔵本の注記修正箇所を比較すると若干の出入や精粗の差があり、自町と関係の薄い改印情報は脱落する場合があったものかと思われる。両者比較対照することによって、近世中後期の大坂における寺院のプレゼンスの一端を、立体的に窺うことができるであろう。
江戸幕府の旗本遠山家関連の記録で、主として幕末の景晋・景元・景纂の三代にわたる日記や先例記録の類からなる。景晋(1764-1837)は昌平坂学問所の学問吟味で優秀な成績をあげ、目付・長崎奉行・勘定奉行などを歴任した能吏。その子景元(1793-1855)は北町奉行・大目付・南町奉行などを務めた名奉行として知られ、「遠山の金さん」のモデルに擬せられる。景纂(1817-1855)は景元の子で徒頭・西丸目付などを務めた。それぞれの職務に関連して作成されたであろう記録類の多くは諸方に散逸したが、その一部が古書肆の手を経て昭和11年に東京帝国大学法学部の所蔵に帰した。各冊の表紙に記されたタイトルとナンバーによって列挙すると、①『歩兵校尉日記』2冊、②『文化日記』8冊、③『天末弘始録』6冊、④『御触書』2冊、⑤『法令絲綸録』2冊、⑥『御仕置例』2冊、⑦『金銀出入』1冊、⑧『御仕置附書附』1冊、⑨『御指図振一覧』1冊、⑩『天保九至十二公事吟味物目録』1冊、⑪『御徒頭勤方』1冊、⑫『弘化元年中御番所御入用請帳』1冊、⑬『焼捨訴状取計書抜』1冊、⑭『静定公履歴』1冊、⑮『訴答状』1冊、⑯『雑纂』2冊の都合33冊となる。いずれも原本だが、表紙は伝来・整理の過程で加えられたものであり、これらのタイトルや付番の順序は、遠山家記録の原状を精確に伝えるものではない。
①は徒頭在任中の景纂の日記(弘化4-嘉永元年[1847-48])。②は文化2年(1805)から文政2年(1819)に及ぶ景晋の日記だが、内表紙には(第1冊から順に)「御目付日記五」、「御目付日記八」、「(表題欠損)」、「長崎奉行日記十二」、「長崎奉行日記十三」、「長崎奉行日記十四」、「(表題欠損)」、「御作事奉行 日光御霊屋向見分 同御修復奉行 日記十七」とあって、現存分以外に10冊程度が在ったであろうことが知られる。③は天保末年から弘化初年にかけて、時期的に見て景元の代の記録を後にまとめたものと思われるが、各冊の内表紙に「天末弘始録前篇上」「天末弘始録壱」「天末弘始録参」「天末弘始録四」「続天末弘始録五」「(欠損)弘始録六」とあって、現存する6冊以外になお何冊かが在ったとみられる。④以下は主に町奉行関係の参照資料を編んだものだが、⑭は景晋が天明から寛政年間の自身の履歴を享和元年に整理したもので、徒頭から目付に異動するに際して作成されたものであろう。
『文化日記』のうち「長崎奉行日記」3冊分は、荒木裕行・戸森麻衣子・藤田覚編『長崎奉行遠山景晋日記』(清文堂出版2005)として翻刻刊行されている。
江戸時代末期に飛騨郡代や江戸城二の丸留守居などを務めた旗本豊田友直(1805-1870)の日記。豊田友直は旗本久須美家に生まれたが豊田家の養子となり、家督継承後しばらく評定所に勤務した後、天保10年(1839)に飛騨郡代に任ぜられて高山に赴任した。5年半ほどにわたる郡代在任中には飢餓対策・物価対策などに努め、弘化2年(1845)に二の丸留守居に転じて江戸に帰任、以後は諸役を歴任したが元治元年に病気を理由に隠居、明治3年(1870)に死去した。この間に記した日記のうち、天保5-6年(1834-35)の『信総旅中日記』1冊、天保11年(1840)から弘化2年に至る『飛騨在勤中日記』5冊、江戸帰府後の弘化2年から明治3年に至る『日記』13冊、都合19冊の自筆原本が、法制史資料室に所蔵されている。
このうち『信総旅中日記』は、評定所留役在任中の天保5年から6年にかけて用水争論の処理のため信濃に派遣され、帰路利根川を経て下総北部布佐に到った旅の記録で、スケッチや詩文を交えて旅程沿道の情景を伝えている。『飛騨在勤中日記』天保11年4月11日条に「中山道者去ル午未両年遠国御用ニ而往返都合三ヶ度通行勝地名区之風光山岳江河之唱称及ひ宿駅之盛衰里数等其節之日記江委しく記置故事不替儀者再ひ不記」とある「其節之日記」がこれにあたる。『飛騨在勤中日記』は、郡代としての業務に関わる行政・民政関係の記録を中心としつつ、支配所一帯の地誌・風土・民俗など広範囲にわたる観察が書き留められており、本資料の中核をなし、幕末の地方社会の状況を伝える史料として貴重なものである。江戸帰府の後も元治元年の隠居を挟んで日記は続き、最後の記事は10月13日、死の直前まで書き継がれたと思しい。
飛騨郡代在勤中の分については、西沢淳男編『飛騨郡代豊田友直在勤日記』1、2(岩田書院2019-2020)として翻刻刊行されている。