近代法制史料の解説

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『英国大使館文書』

 本資料群の主部をなすのは、幕末から明治初年にかけて、日本の外交担当者や政府関係者から駐日英国公使ないしその属僚に送られた文書の日本語原本である(「幕府及明治政府側よりイギリス公使館宛公文書綴」)。英国大使館に保管されていたものが昭和26年(1952)に廃棄処分とされ古紙業者に売り払われたものの、幸いにも滅失を免れて本室と早稲田大学図書館とに分蔵されることになった(但し一部は所在不明)。文書を10数通ずつ接ぎ合わせて蛇腹様に折り畳み、杉板を表紙に用いた法帖仕立てで、本室に131帖、早稲田大学図書館に80帖を蔵する。本室所蔵分の冒頭には文化~天保の「薪水給与令」「異国船打払令」の写しが置かれ、以下安政6年(1859)から明治6年(1873)に及ぶ外交文書が綴られている。また、本室には、安政5年(1858)から明治41年(1908)に至る日英間の外交文書の写しを綴った和装本都合64冊を蔵する。法帖仕立ての文書と同時に英国大使館から出たもので、英国側から日本側に宛てた書翰類の訳文や条約文などを収めたもの(「イギリス公使館より幕府及明治政府宛文書写」57冊)と、日本側から英国側に宛てた書翰類を抜粋したもの(「日本側より英国公使館宛公示文書抜粋」7冊)から成る。これらを併せ見ることによって、幕末から明治に至る日英外交関係の諸局面の具体相を垣間見、その推移を辿ることができるであろう。なお、早稲田大学所蔵分を含めた簡略な目録が、洞富雄・柴田光彦「英国大使館旧蔵・外国事務老中書翰(一)」(『早稲田大学図書館紀要』1号、1959年)に「早大図書館/東大法学部収蔵・英国大使館旧蔵・日英外交文書目録」として付載されている。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


「外地掛御用留」(甲:2:3307)

 幕末のいわゆる「開国」に伴い、開港地には外国公館や外国人居留地が設定されることになり、そのために生じた種々の案件を処理すべく、各地に所管の官庁が設置された。横浜には安政6年(1859)に神奈川奉行が置かれ、これが慶應4年(明治元、1868)3月に横浜裁判所、同年4月に神奈川裁判所、6月には神奈川府、9月に神奈川県と改称されることになる。本資料は、安政6年の開港以降明治初年に至る間に横浜近辺の外国人居留地に関わってこれらの官において遣り取りされた資料の写しを綴り合わせたものであり、「御用留」7冊、「書翰留」1冊の計8冊からなる。
 各冊の表紙に「外地掛」との記載があるが、神奈川府から神奈川県への改称の後、明治4年2月にそれまでの「居留地掛」を「取締掛」と「外地掛」に分割しており、この「外地掛」における執務上の参考資料として、関連の記録を神奈川奉行時代にまで遡って編んだものと考えられる。「御用留」7冊は、第1冊から順に①安政6年から文久年間、②元治元年(1864)、③④慶應元年(1865)、⑤慶應2年、⑥慶應3年、⑦慶應4年のものをおさめる。なお、⑤にはもと別の冊子であったものを合綴した形跡があり、後半部には明治5年ないし6年のものが含まれている。また、「書翰留」表紙には「第弐号」との朱書があり、現存するのは編纂されたものの一部にとどまるとみられる。
 内容は、外国公館用地の選定や関連施設の設営、外国人居留地の管理などに関わって、幕府の指示命令や各種の手続書類、諸国外交関係者との遣り取りなど多岐にわたり、諸施設の用地選定に関連した絵図面なども含まれている。幕末から明治初年にかけての開港地の状況を伝える貴重な史料である。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)

 


『華士卒族関係史料群』

明治時代の華族・士族・卒といった族制に関する史料。明治維新によって、従来の身分制が改編され、大まかにいえば、旧制下の公卿・諸侯が華族、一般の武士や地下官人などが士族、末端の家臣や公家武家奉公人の一部などは卒として編制された。これらの称を帯びる者は、君主の手足となり国家統治の役割を分かち担う「臣」として、統治の客体である「民」とは区別されて中央政府ないし府県の指揮監督に服し、様々な事柄について所轄官庁への願出・届出を規定されていた。ここに掲げた史料は、明治前半期に、華士族や卒から所轄の官庁へ提出され受理された届書の原本綴である。いずれも断片的なものだが、「臣」管理の仕組みや手続きの一端を窺わせる史料である。

 

「華族諸届」(甲:2:3795):華族から宮内省へ提出された諸届を綴じた記録。1冊は明治10年、宮内卿徳大寺実則に宛てたもので表紙に「華族掛」とあり、もう1冊は明治22年、宮内大臣土方久元に宛てたもので表紙に「爵位局」とある。明治9年に宮内省庶務課に設置された華族掛がこの種の届出の窓口となった。その後、明治15年に華族局が置かれ、これが明治21年に爵位局と改称された。それぞれの時期に窓口となった部局において保存編綴され伝存したものであろう。届書の内容は旅行出立・帰京や忌服・忌明けなどが主。

「宮内省届書 明治十二年十月分」(甲:2:2556):明治12年10月に華族から宮内卿徳大寺実則に宛てて出された諸届を編綴したもの。「華族諸届」2冊の中間の時期にあたる。届書の内容は「華族諸届」とほぼ同様だが、華族会館華族部長局副督部長東久邇通禧や各部長らの印・花押が据えられており、これらの届書は華族部長局を通して提出されたものと認められる。簿冊表紙に「第三課」とあるのは、華族会館第三課の意であろう。華族部長局は明治11年に華族会館に設置されて華族の統制にあたったが、明治15年、宮内庁に置かれた華族局にその任を譲った。

「壬申従五月至八月 諸願留 京都府士族觸頭局」(甲:2:2172):明治初年の京都府においては、士族として貫属せしめられた旧地下官人を管理するために觸頭を置いて士族を分属せしめ、指示命令の伝達や願・届の取次などに当たらしめた。本史料は、この制のもとで觸頭を通じて提出された願書の綴である。願出の内容によっては觸頭に宛てた「親類添願」が添付され、それに親類と並んで「閭長」が署判を据えている。これは、明治4年9月に、觸頭管下の士族を11閭に分けてそれぞれに閭長を置き、1閭を4比に分けてそれぞれに比長を置いて管理の便を図る制が敷かれたことによる(羽賀祥二「明治維新と地下官人――士族「閭」・「比」制度について――」『王権と社会―朝廷官人・真継家文書の世界』名古屋大学附属図書館2007、参照)。本史料は、この時期の京都独特の制度である閭長に関する史料として貴重なものである。

「明治四年辛未 卒諸願 京都府貫属掛」(甲:2:2173):京都府に貫属せしめられた卒から政府役人に宛てられた諸願書の明治4年2月分原本綴。出願者には市政局や警固方、二条城番などに属する下吏が多いが、一部に「元卒」や「士族」からの願書も含まれている。また、士族編制において閭・比の制が敷かれる以前に「閭長」の称が用いられた例があり、士族に先行し卒について「閭」が置かれた可能性を窺わせるなど、この時期の京都における卒編制についての情報を伝える。なお、本史料に綴られた願書においても「卒族」の語がまま用いられているが、公式には「卒」で「卒族」は俗称。卒制は明治5年に廃止され、旧卒は士族もしくは平民に編入された。

(大学院法学政治学研究科 教授 新田 一郎)