資料の解説

このデータベースは、東京大学総合図書館で所蔵する亀井文庫『ピラネージ版画集 Opere di Giovanni Battista Piranesi, Francesco Piranesi e d'altri 』(フィルマン・ ディド兄弟出版社, 1835-1839)全29巻をデジタル化したものです。
2020年7月に「ピラネージ画像データベース(拡張版)」を公開しました。是非ご利用ください。

元来は、特別推進研究(COE)「象形文化の継承と創成に関する研究」(1999-2003年度)による調査研究にもとづき構築・公開されたデータベースですが、システム運用上の問題から一時公開を停止していました。そのデータを引き継ぎ、2019年に東京大学デジタルアーカイブズ構築事業の一環としてリニューアル公開しました。
プロジェクト全体の情報は、『象形文化の継承と創成に関する研究』(平成11-15年度科学研究費補助金特別推進研究(COE)研究成果報告書)をご参照ください。
また、旧データベースでは「各巻頭やシリーズ冒頭に挟まれた冊子形態の序文・図版目録のテキストは、図版の解説に相当しその内容が研究資料となる」として、『ピラネージ版画集 Opere di Giovanni Battista Piranesi, Francesco Piranesi e d'altri 』の「序文」等もデジタル公開していました。当データベースでもそれらを引き継ぎ、同様に「序文」等として公開しています。


■亀井文庫について

東京大学総合図書館所蔵亀井文庫は、旧津和野藩主亀井家の当主で後に伯爵となった亀井茲明(かめい・これあき、1861-1896年)が滞独中に購入した美術研究資料の寄贈コレクションです。多数の貴重書を含む西洋美術史関係の文献1,958点が収められています。
西周(1829-1897年)の門生であり美術に造詣の深かった茲明は、1886(明治19)年末、各国の帝室儀式調査および美術研究のため、ドイツに留学しました。渡独後、日本に美術学の基礎を打ち立てるという志を抱いて美学美術研究に専心し、ベルリン大学にて四年間学んだ後、ヨーロッパ一巡の美術見学を経て1891(明治24)年に帰国しました。
帰国後、茲明は日本美術振興に努めましたが、1894(明治24)年に勃発した日清戦争に写真班として従軍し、撮影した写真は『明治二十七八年戦役写真帖』(明治30年)として諸方に献納されました。しかし、この従軍によって健康を害した茲明は間もなく病床に伏し、1896(明治29)年7月、小石川区丸山町の邸で永眠しました。
茲明の死後、彼がベルリンで購入した書物の大部分が東京大学に寄贈され、「亀井文庫」として東京大学総合図書館に所蔵されています。

「亀井文庫」についてhttps://www.lib.u-tokyo.ac.jp/ja/library/general/collectionall/kamei
関連ページ「亀井文庫」西洋古写真コレクション(総合研究博物館デジタルミュージアム)
参考文献 : 亀井茲明著『日清戦争従軍写真帖 : 伯爵亀井玆明の日記』(柏書房, 1992.7)


■『ピラネージ版画集』及びジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージについて
フィルマン・ディド版「ピラネージ版画集」とピラネージの銅版について

ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi, 1720-1778年)の息子フランチェスコ・ピラネージ(Francesco Piranesi, 1758-1810年)の死後、ピラネージの銅版はすべて、著名な出版業者であったアンブロワーズ・フィルマン・ディド(Ambroise-Firmin Didot, 1790-1876年)に買い取られました。亀井茲明が購入した『ピラネージ版画集』は、1835-1839年にフィルマン・ディド兄弟出版社より発行された版にあたります。その後、ローマ法王グレゴリオ16世(在位1831-1846年)の指示により、1839年にピラネージの銅版はディドからローマに返還され、現在、ローマ国立銅版画博物館 (Calcografia nazionale, Roma) に永久保存されています。

 

ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ略年譜

1720 10月4日、ヴェネト州メストレ近郊のモリアーノで、アンジェロ・ピラネージとラウラ・ルッケージの間にジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ誕生。
11月8日、ヴェネチアのサン・モーゼ教会堂で洗礼を受ける。
1730-1740頃 叔父で建築家かつ技師であるマッテオ・ルッケージ、及び建築家のジョヴァンニ・スカルファロットに学んだとされる。また、カルロ・ヅッキに遠近法を、カルトジオ会修道士でローマ史とラテン語を研究している、兄のアンジェロに学び、年配のフェルディナンド・ビビエーナ、またおそらくその家族、さらにドメニコそしてジュゼッペ・ヴァレリアーニからは劇場設計図を学んだと思われる。
1740 マルコ・フォスカリーニ大使は教皇べネディクトゥス14世の宮廷を訪れ、その随行として初めてローマに赴く。
1740-1743 ニコラ・ジョッベを介して、建築家のルイジ・ヴァンヴィテッリとニコラ・サルヴィと会う。またヴァチカン図書館司書のジョヴァンニ・ボッターリとも面識を持つ。ジュゼッペ・ヴァージの工房で版画を研究するが、彼と反りが合わなくなる。
ヴァージを介して、「オペレ・ヴァリエ」(Opere Varie, 1750)でピラネージの肖像を描くフェリーチェ・ポランツァーニと出会う。ナポリとエルコラーノの発掘を訪問し、そしてピラネージを古代遺跡の記録に関心を持たせるさせるポルティッチ美術館館長カルロ・パデルニと出会う。
1743 ニコラ・ジョッベに献じられた12葉の「第1部 建築と遠近法」(Prima Parte di Architetture, e Prospettive)をローマで刊行。
1744 ヴェネチアに滞在し、そこで恐らくティエポロの工房に通い、幾つかの絵画作品の依頼を受ける。
1744-1745 版画出版者ジュゼフ・ワーグナーの薦めでローマに戻る。
フランス・アカデミー近辺のコルソ通りに居住する。
1744-1746 「テヴェレ川流域の地図」(Pianta del Corso del Tevere)でカルロ・ノッリと協力する。
1745-1750頃 135葉の「ローマの景観」(Vedute di Roma)、4葉の「グロテスキ」(Grotteschi)、14葉の「牢獄の奇想」(Invenzioni capric(ciose) de Carceri)、11葉の「古代ローマの墳墓」(Camere sepolcrali:最終的にLe Antichità Romane に組み入れられる)を出版する。
1748 28葉の「共和政及び帝政初期ローマの遺跡」(Antichità Romane de' Tempi della Repubblica、 e de'primi Imperatori)を出版する。ジャン・バッティスタ・ノッリと「新ローマ地図」(Nuova Pianta di Roma)を協力する。
1750 ジョヴァンニ・ブシャールが、「オペレ・ヴァリエ」(Opere Varie)と題するピラネージの作品集を出版する。そこには類似した様式作品の「第1部―建築と景観」(Prima Parte di Architetture, e Prospetteve)と「グロテスキ」(Grotteschi)が含まれている。
1751 ジョヴァンニ・ブシャールが、「ローマの壮麗」(Le Magnificenze di Roma)と題するピラネージの別の作品集を出版する。そこには、「ローマの景観」(Vedute di Roma)の34葉と「牢獄の奇想」(Invenzioni capric(ciose) de Carceri)の第2版、そして「共和政及び帝政初期のローマ遺跡」(Le Antichità Romane de' Tempi della Repubblica)の第2版が含まれている。この頃、ピラネージはシャルルモン卿と出会い、「ローマの遺跡」(Le Antichità Romane)の出版を合意する。
1752 庭師コルシーニ家の娘アンジェラ・パスクイーニと結婚する。「ローマの遺跡」(Le Antichità Romane)の出版の為に、彼女の持参金をその銅板に投資する。
1753 ジョヴァンニ・ブシャールは、10葉の「オクタウィアヌス・アウグストゥスの戦勝記念碑」(Trofei di Ottaviano Augusto innalzati per la Vittoria ad Actium)を出版する。
1755頃 娘ラウラ誕生。ロバート・アダムと出会う。
1756 218葉の「ローマの遺跡(4巻)」(Le Antichità Romane)を出版する。
1757 2月24日、ロンドン考古学会名誉会員に選ばれる。
シャルルモン卿の「ローマの遺跡」における経営的失策に対して失意を抱き、彼に宛てた公開状「シャルルモン卿への弁明書」(Lettere di Giustificazione scritte a Milord Charlemont e a'di lui agenti di Roma)を出版する。
1758-1759 息子フランチェスコ誕生。
1760頃 過去のシリーズを再版するが、特に「ローマの景観」(Vedute di Roma)や「想像による牢獄」(Carceri d' Invenzione)と改題することになる「牢獄の奇想」(Invenzioni capric(ciose) di Carceri:2葉追加)を手直しする。
1761 2月2日、サン・ルカ・アカデミー会員に選出される。3月までにサンタ・トリニタ・デイ・モンティ近くのフェリーチェ通り(現システィーナ通り)にあるトマーティ館に居住する。
「ローマの景観」(Vedute di Roma)と「想像による牢獄」(Carceri d' Invenzione)を再版。さらに、「シャルルモン卿への弁明書」(Lettere di Giustificazione scritte a Milord Charlemont)からの版画を含む「オペレ・ヴァリエ」(Opere Varie)を再版。また、25葉の「ユリウス水道の貯水槽の遺構」(Le Rovine del Castello dell' Aqua Guilia)や40葉の「ローマの壮麗なる建築」(Della Magnificenza ed architettura de' Romani)も出版。自身の全版画の作品目録を出版準備し始める。
1762 ロバート・アダムに献じられた52葉の「古代ローマのカンプス・マルティウス」(Il Campo Marzio dell' Antica Roma)と7葉の「カピトリヌス丘の石碑、すなわちローマの執政官表および凱旋将軍表」(Lapides Capitolini sive Fasti Consulares)、そして12葉の「アルバノ湖の放水路」(Descrizione e Disegno dell' Emissario del Lago Albano)を出版する。
1763-1764 キウージとコルネートを訪れる。
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂の主祭壇の再建と内陣の修理を依頼され、そのデザインを手がけるが、実現せず。
1764 32葉の「アルバノとカステル・ガンドルフォの遺跡」(Antichità d' Albano e di Castel Gandolfo)、24葉の「古代都市コラ遺跡」(Antichità di Cora)、そして4葉の「グエルチーノのデッサン集」(Raccolta di alcuni disegni del Barbieri da Cento detto Il Guercino)を出版する。
サンタ・マリア・デル・プリオラート教会堂の修復を枢機卿ジョヴァンニ・バッティスタ・レッツォーニコから依頼される。
1764~1766 マルタ騎士団広場の設計に従事する。
1765 「マリエット氏の書簡に関する省察」(Osservazioni sopra la lettere de M. Mariette)を出版する。
1765以後 28葉の「古代ローマによる凱旋門およびその建造物の景観」(Alcune Vedute di Archi Trionfali ed altri monumenti inalzati dà Romni)を出版する。
1766 サンタ・マリア・デル・プリオラート・スラヴェンティーノ教会堂の仕事を終える。
1767頃 クイリナーレにある枢機卿レッツォーニコのアパルタメントの装飾に従事する。
1767 1月16日、教皇クレメンス13世より、金の拍車(Cavaliere degli Speroni d' Oro)の騎士の称号を受ける。
1768頃 ピラネージが生涯を通じて手がける「古代の容器、燭台、墓標、棺、鼎、ランプ、および装飾品」(Vasi, candelabra, cippi, sarcofagi, tripod, lucerne ed ornamenti antichi)の単品版画シリーズを開始する。
1769 73葉の「暖炉の様々な装飾と建築部分の様々な装飾」(Diverse Maniere d' adornare i cammini ed ogni altra parte degli edifizi)を出版する。
1772 ピオ・バレストラに献じるモニュメント構想で、サン・ルカ・アカデミーと不仲になる。
1774-1779 「トラヤヌス帝の記念柱およびマルクス・アウレリウス帝の記念柱」(Trofeo o sia Magnifica Colonna Coclide di marmoノove si veggono scolpite le due guerre daciche fatte da Trajano e Colonna Antonia)を出版する。
1777頃 パエストゥムを訪れ、神殿の大素描17葉を制作する。
1778 「ローマとカンプス・マルティウスの地図」(Pianta di Roma e del Campo Marzio)と114葉の「古代の容器、燭台、墓標、棺、鼎、ランプ、および装飾品」(Vasi, candelabra, cippi, sarcophagi, tripod, lucenrne, ed ornamenti antichi)を出版する。
息子フランチェスコの協力と共に「パエストゥムの古代都市に残る様々な光景」(Différentes vues de quelques Restes de l' ancienne Ville de Pesto)の素描を元に17葉を版刻する。 11月9日、ローマの自宅で死去。サンタ・マリア・デル・プリオラート教会堂に埋葬される。
1778-1779 ロンドンで、ロバート・アダムの素描に倣ってピラネージが版刻した4葉(おそらく1764年の版)を「建築作品(2巻)」(The Works in Architecture)として、ロバート、そしてジェームス・アダムの手によって出版される。
1779-1798 ピラネージの作品は家族と工房によって出版され続ける。
「古代神殿集」(Raccolta dei Tempi Antichi, 1780年)、「ハドリアヌス帝のヴィッラに残る建造物の地図」(Pianta delle fabbriche esistente nella Villa Adriana, 1781年)、「エルコラノの劇場」(Il Teatro d' Ercolano, 1783年)、「スキピオ家の墓所」(Monumenti degli Scipioni, 1785年)、「ローマの最も美しい彫刻集」(Collection des plus belles Statues de Rome, 1786年)、「第2部―古代神殿集」(Seconda Parte de' Tempi Antichi, 1790年)。
1792 ピラネージの作品目録が出版される。
1799 フランチェスコは政治的意図によりパリに移住し、そこで版画活動を続ける。
1800 フランチェスコは父の作品を再版する。
1835-1839 出版者フィルマン・ディドはピラネージの銅板を購入し、全作品集を再版する。
1839 教皇グレゴリウス16世のために、枢機卿アントニオ・トスティは、ピラネージの銅板を購入し、その結果それらは最終的にローマに戻ることになる。

 

参考文献:
桐敷真次郎, 岡田哲史『ピラネージと「カンプス・マルティウス」』 (本の友社, 1993)
A. M. Hind, Giovanni Battista Piranesi A Critical Study (New York, 1922)
A. Robinson, Piranesi Early Architectual Fantasies (Washington, 1986)
J. Wilton-Ely, The complete Etchings Giovanni Battista Piranesi, vol. I, II (Alan Wofsy Fine Arts, 1994)
A cura di A.Bettagno, Piranesi Incisioni-Rami-Legature-Architetture (Vicenza, 1978)
Etchings by Giovanni Battista Piranesi 1720-1778 [catalogue], (London, 1973)
Piranesi Drawings and Etchings [catalogue] (Columbia University of the City of New York, 1972)
P.マレー, 長尾重武訳『ピラネージと古代ローマの壮麗』 (中央公論美術出版社, 1990)
『ピラネージ版画展 : 建築=幻想のイタリアの巨匠』(神奈川県立近代美術館, 1977)
『ピラネージ版画展 : 光と影の戯れ。古代ローマの幻想空間』図録 (町田市立国際版画美術館, 1989)