平賀譲は日露戦後から大正期にかけて、海軍艦政本部で国産主力艦の計画・大量建造に指導者的役割を果し、また軍縮期においても海軍技術研究所長として海軍の軍事技術開発全般を主宰するというように、科学技術の専門家集団としての日本海軍を代表した人物です。
平賀は同時に、自身の出身校であった東京帝国大学工学部との関係が深く、1919(大正8)年から定年まで20年間、同大学の教授として軍艦設計講座を担当しました。1935(昭和10)年には東京帝大工学部長に就任し、工学部総合試験所設立・試験水槽の設置など工学部の飛躍的な拡充を行いました。1938(昭和13)年の東京帝国大学総長就任時には文部大臣荒木貞夫などと協力して、いわゆる「平賀粛学」を実行しました。その他にも、文部省科学研究費の創設に深く関与するとともに学術研究会議(日本学術会議の前身)会長として、戦時体制期における学術研究の組織化を主導しました。
また平賀が海軍技術研究所時代に実施した実艦の抵抗計測実験の成果は、昭和9(1934)年の英国王立造船学会で報告され、平賀はその結果同学会から日本人初のメダルを授与されました。
以上のように造船分野の研究・開発を通じて、海軍拡張・産業力強化・大学工学部の拡充を同時に推進した平賀譲に関する本格的な学術研究を行い、当時の歴史的社会的状況の中での技術と教育の実像を明確にし、今日的意義を見出すことはきわめて重要な作業です。
また平賀譲文書は、文書、図面、写真、手紙など総計40000点以上という膨大な点数に上ります。また青焼きや、油紙などに記された物も多く、褪色や破損などがすすみ、このままの保存に際しては修復等の措置が必要な状況となってきました。また、研究家に直接現物の縦覧を許すことも、資料の保全の観点から困難です。そのため、平賀譲文書全体をデジタルアーカイブとし、東京大学附属図書館電子化コレクションにおき、研究者ばかりでなく広く一般に公開することにしました。