Pianta di Roma e del Campo Marzio col relativo Indice e la dedica a Clemente XIII; in tre fogli, e titolo riportato.

別資料名
ローマとカンプス・マルティウスの地図〔3枚組の2〕
言語
イタリア語
種別
静止画資料
編著者
Giovanni Battista Piranesi
編著者(ヨミ)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ
内容記述

Series Title:VEDUTE DI ROMA

シリーズタイトル [Series Title]:ローマの景観

Inscription 1:Clementi XIIIIpontifici maximo,promotori bonarumartiumeques Io(hannes) B(ap)t(ista) PiranesiusarchitectusPianta Topografica degli avanti dell'antica Roma. I numeri che si leggono accanto dei monumenti sono corrispondenti agli altri della Pianta grande al suo indice

版画銘文・版刻文1 [Inscription 1]:教皇にして芸術の保護者であるクレメンス14世に捧げる騎士ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ建築家古代ローマの遺跡の地図。遺跡の横に書かれた番号は、大きな地図のリストの番号と対応している。

Inscription 2:B Rovine sotterrance di forma rotonda opera retticolata, sopra le quali e fabbricata una casa moderna.C Altre rovine dello stesso Mutatorio di Cesare nella vigna Nicolini.46 Rovine dell'Opere fatte per rendere più placida l' erta dell' Aventino.47 Avanzi delle stesse opere nella vigna dè Colonnesi.48 Avanzi degl' Ana'roni del Cortile della Casa di Faberio Seriba nella vigna del Noviziato de' R.di.PP. Gesuiti. 49 Rovine di bagni nella vigna Maccherani.50 Tratto di mura d' Aureliano ora distrutto. Si veda a mano manca vicino alle mura.51 Rovine del Sessorio occupate dal Monastero di Monaci di S. Croce in Gerusalemme.52 Archi del condotto dell' acqua Claudia, e Anione nuova unito alle mura di Roma.53 Avanzi del Tempio della Speranza Vecchia nella vigna de Monaci sud.ti A.a R.e Tom. 1. Tav. 18. Fig. 1.54 Barbacani degl' Archi del cond.te sud.to dell' acqua Claudia.55 Avanzi della Fiscina, o Tepidario delle Terme di S. Elena nella villa Conti.

版画銘文・版刻文2 [Inscription 2]:118 同〔サン・ジョルジョ・イン・ウェラブロ〕教会のそばにある,ステルティニウスの四辺形の門[ヤヌスの四面門]〔今日では前196年に建てられたとされるルキウス・ステルティニウスの凱旋門がこれであるとは考えられていない〕。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版21,図2と『ローマの景観』〔に示した〕。119 サンタ・マリア・イン・コスメディン教会。120 フォルトゥナの神殿と〔マテル・〕マトゥタ1の神殿の溝の刻まれた大理石円柱のうちのいくつかは,前述の教会の壁体の中に埋め込まれている。121 同聖堂の脇にある,サトゥルヌスの聖所〔実際はおそらくヘラクレスの祭壇〕の遺跡。122 現在〔当時〕サンタ・マリア・デル・ソーレ教会2となっている,フォルム・ボアリウムにあるキュベレ神殿,あるいはより正しく思われる説によれば,ヘラクレス神殿である〔実際,ヘラクレス・ウィクトル神殿という碑文が見つかっている〕。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版22,図2と『ローマの景観』〔に示した〕。123 ケンソル[戸口調査官・監察官]のマルクス・〔ポルキウス・〕カトと〔ルキウス・〕ウァレリウス・フラックス3によって作られた2つの下水溝の排出口。これらの下水溝の口は,124番のクロアカ・マクシマ[大下水溝]の別の口と同様,ベッリドと呼ばれる大きな土塁の遺構が長く延びた部分に見られるが,その土塁はテヴェレ《ティベリス》川の河岸にあり,前述のクロアカ・マクシマを作ったタルクィニウス・スペルブスによって作られたものである。124 テヴェレ川に注ぐクロアカ・マクシマの排出口。マッジョーレ門《ティブルティナ門》とサン・ロレンツォ門の間の市壁の外側を見られたし。125 市壁の閉ざされた小さな門。126 古代の建物の遺跡で,その上にローマの市壁が据えられている。127 別の閉ざされた小さな門。128 アルティエーリの庭園別荘にある,マリウスの戦勝記念碑4。G. 〔エスクィリーノ丘にあった〕パロンバラ荘における,ルドゥス・マグヌスの建物の遺跡。129 ユリウス水道の貯水槽〔セウェルス・アレクサンデルの泉水堂〕の〔に至る〕水道橋の遺跡。ユリウス水道の貯水槽の学術書の図版Iに見ることができる。130 同水道の貯水槽の内の1つの遺跡。前述の学術書に見ることができる。131 サン・ヴィート教会近くのガッリエヌス帝〔在253年-268年〕の記念門。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版26,図2〔に示した〕。132 サン・マルティーノ・アイ・モンティ教会の地下にある,間違ってトラヤヌス帝の浴場と呼ぶ人もいる,後世の建物の遺構。133 サン・マルティーノ・アイ・モンティ教会。134 間違ってトラヤヌス帝の浴場と呼ばれている,サン・ルカ・イン・セルチ修道院に接した,後世の建物の他の遺構。135 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会。136 ミニミ会修道院とサン・フランチェスコ・ディ・パオラ・アイ・モンティ教会5の基礎部のアーチ下にある,ネロ帝の宮殿〔ネロ帝のものかどうかは不明〕の遺跡。137 サン・フランチェスコ・ディ・パオラ〔・アイ・モンティ〕教会。138 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会近くのマッテイ荘にある,同宮殿の他の遺跡〔これもやはりネロ帝のものかどうかは不明〕。[139-179番までは,前の図版に書かれている]139 サンタ・フランチェスカ・ロマーナ教会の菜園にある,ネロ帝のドムス・アウレア[黄金宮殿]の2つのトリクリニウム[横臥式食堂]〔実際はウェヌスとローマの神殿〕の遺跡。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版33,図2と『ローマの景観』〔に示した〕。140 『ローマの景観』におけるティトス帝〔在79年-81年〕の凱旋門。141 前述のサンタ・フランチェスカ〔・ロマーナ〕の修道士達の菜園にある,ネロ帝のドムス・アウレアのタブリヌム[主室]への入口となっていた,吹き抜けのアトリウムの遺跡〔実際はウェヌスとローマの神殿の一部〕。前述の図版〔に示した〕。142 トル・ディ・コンティ6[トッレ・デイ・コンティ]そばの托鉢修道会の庭にある,前述のドムス・アウレアの小部屋〔実際はアウグストゥス帝のフォルムの一部〕の遺跡。143 前述のドムス・アウレアのタブリヌムの遺跡。パキス[平和]神殿と俗称されている〔実際はマクセンティウス帝とコンスタンティヌス帝のバシリカ〕。前述の図版〔に示した〕。144 前述のネロ帝の宮殿の壁体の遺構。そして,ロムルス神殿〔これは俗称。実際はおそらくマクセンティウス帝のバシリカ建設のため,その建設地にあったペナテス神殿が移築されたもの〕の遺跡の上に建てられた,サンティ・コズマ・エ・ダミアーノ教会。145 サン・ロレンツォ・イン・ミランダ教会によって場所を占められた,アントニヌス・ピウス帝と皇妃ファウスティナの神殿の遺跡。『ローマの景観』〔に示した〕。146 カストルとポッルクスの神殿[ディオスクロイ神殿]の遺構の,アーキトレーヴとフリーズとその上のコーニスを伴う3本の円柱。それは,カリグラ帝7〔在37年-41年〕によって彼の宮殿の玄関の間に変えられてしまった。その壁体の遺構は,サンタ・マリア・リベラトリーチェ教会〔19世紀末に撤去された〕の裏手に見ることができる。147 サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会。148 フォルトゥナ・ウィリリス神殿〔実際はポルトゥヌス神殿〕。現在は〔当時〕サンタ・マリア・エジツィアカ教会となっている。『ローマの景観』〔に示した〕。149 コーラ・ディ・リエンツォの家8,つまり,ロレンツォの息子ニコラ〔実際はクレシェンツィ家〕の家のことであるが,14世紀〔実際は1040年-1065年頃〕に古代の建物の遺物を用いて建てられた。前述の神殿のそばにある。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版21〔に示した〕。150 古代のセナトリオ[元老院]橋あるいはパラティーノ[皇帝]橋の廃墟の上に,教皇グレゴリウス13世〔在1572年-1585年〕によって建設されたロット橋9《アエミリウス橋》。古代の橋脚は,ケンソルのスキピオ・アフリカヌス10〔実際はプブリウス・スキピオ・アエミリアヌス〕とルキウス・ムンミウス11によって作られ,そのアーチのうちの1つ,つまりトラステヴェレ側の岸から1つ目のアーチも,対岸の古代の橋脚部分と同様にまだ残っている。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版20,図2〔に示した〕。151 テヴェレ川岸の平民の家の小さな遺構。152 ティベリーナ島《ティベリス島》の先端。エピダウロス12からアスクレピオス13の蛇をここへもたらしたという伝説的な船を記念して,古代にトラヴァーチンで作られたの船の遺構がここに見える。その同じ先端部には,同神の神殿の遺構が附随している。『ローマの古代遺跡』第IV巻,図版VI. VIIと『カンプス・マルティウス』〔に示した〕。153 石で出来た島の古代の支持体で,島全体を取り巻いていた。154 アスクレピオスの神殿の遺跡の上に据えられた,〔ティベリス〕島のサン・バルトロメオ教会。155 サン・ジョヴァンニ・コラビータ[カラビータ]教会。156 ファブリキウス橋[ファブリツィオ橋]14。『ローマの古代遺跡』第IV巻,図版16から20まで〔に示した〕。157 現在フェッラート橋[チェスティオ橋]15と呼ばれているグラティアヌス橋。同巻,図版21から24まで〔に示した〕。158 テヴェレ川の増水によって後世に分かれてしまった島の先端で,そこにはアニキウス3兄弟の家の古代の壁体〔ここに6世紀末頃,アニキウス家所有の宿屋があったという碑文がある〕が見える。〔地図の〕反対側,つまり〔東側の〕市壁の内側,サン・ロレンツォ門の近くを見られたし。159 サン・ロレンツォ門にあるマルキウス,テプラ,ユリウス水道の遺構。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版II〔に示した〕。160 サンタントニオ・アバーテ教会。161 間違ってディアナの神殿と呼ばれている,後世の建築遺構で,現在はサンタントニオ・アバーテ教会の聖職者達の食糧貯蔵庫として使われている。162 サンタ・プラッセーデ教会。163 私有浴場の遺構。164 ポンペイウス・マグヌス16の家の壁の遺構。神の聖ヨハネ兄弟修道会の修道院と近隣の菜園の中にある。165 カリナエ地区17のポンペイウス・マグヌスによって所有されていた家に隣接する浴場の遺跡。サン・ロレンツォ・イン・フォンテ教会の地下に見ることができる。166. サン・ロレンツォ・イン・パーネ・エ・ペルナ教会[サン・ロレンツォ・イン・パニスペルナ教会]〔パンとハムを貧者に施したことが教会名の語源である〕。カプラレッチャ小路にある,オリュンピアスの浴場の遺構。167. サン・ロレンツォ・イン・パーネ・エ・ペルナ教会の修道女達の菜園下にある,前述の浴場の他の遺構。168. 前述の修道女達の菜園後方にある,同浴場の他の遺構。169. ボスケット通りにある石工セバスティアーノと居酒屋主の地下の酒蔵にある,私有浴場の蒸し風呂の遺構。 170. 通称パンターニの門における,ネルウァ帝の〔実際はアウグストゥス帝の〕フォルムの遺跡。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版30と『ローマの景観』〔に示した〕。カンピドリオ近くのカンポ・ヴァッチーノを見られたし。171. 古代の公金保管庫〔実際はクリア・ユリア〕の遺跡で,サンタドリアーノ教会18の一部をなしている。172. サンティ・マルティーナ・エ・ルカ教会。173. カピトリヌス丘の麓にあるセプティミウス・セウェルス帝とカラカッラ帝の凱旋門。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版21,図2と『ローマの景観』〔に示した〕。このモニュメントと現代の食糧輸入の税関との間には,1本のコリント式柱頭を伴う縦溝の入った円柱があるが,誤ってグラエコスタシス〔コミティウムにおける外国使節のための席〕と呼ばれ,ミネルウァのアトリウムの遺構と信じられている〔実際はフォカス帝の記念柱〕。174. カピトリヌス丘の急勾配に真直ぐ立っている3本の円柱で,ユッピテル・トナンス[雷鳴神ユッピテル]神殿と呼ばれている〔実際はウェスパシアヌス神殿〕。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版32と『ローマの景観』〔に示した〕。同様にこの場所では,コンスタンティヌス帝の時代に他の建物の遺物でもって再建した,8本の円柱からなるコンコルディア神殿のプロナオス[前室]の遺構も見える〔実際はサトゥルヌス神殿であり,283年の火災後に既存の資材で再建されたという碑文がアーキトレーヴに残っている〕。『ローマの景観』と『ローマの古代遺跡』を参照のこと。175. 古代のタブラリウム[公文書保管所]の遺構で,その上にはローマの元老院議事堂が建っている。176. カピトリヌス丘の丘裾を支えるために作られた建造物で,アウグストゥス帝のフォルム〔実際はユリウスの,あるいはカエサルのフォルム〕の向かいにあり,ファサードに設置された古い碑文の1つに読めるように,現在マメルティヌスの牢獄19と呼ばれている。177. アウグストゥス帝によって建てられたガイウスとルキウスの柱廊〔実際はウィクス・ユガリウスにある共和政期のアーケード〕の遺構。ポンペイウス回廊20のように作られたマルケッルス劇場のスカエナ[舞台背景および背後の建物]の後方にあり,ブファラ小路とサンタ・ガッラ教会前の通りにある宿屋の間の干し草置場に見ることができる。『カンプス・マルティウス』図版25参照のこと。1600年までこの回廊の別の部分が見えていたが,サンタ・ガッラ教会,つまりサンタ・マリア・イン・ポルティコ教会の通りを真直ぐにするために壊された。新しい救護所と教会の建物の敷地を得るためにいくつかの家が壊された際に,パンヴィニオによって発見されたある碑文に刻まれていたガイウスとルキウスの名前が我々に示唆するように,コーラ・ディ・リエンツォの家の辺りまでかつては延びていた同回廊の角柱等の多くの遺構がここで発見された。『ローマの古代遺跡』第V巻と『カンプス・マルティウス』IV巻〔に示した〕。178. 興味深い例としてこの番号の説明は,同じ番号で示されたこの索引の最後の部分に記されている。179. アントニオ・ラバッコ21によって2つの神殿として間違って解釈された,ガイウスとルキウスのバシリカ22の遺跡。これらの遺構は,マルケッルス劇場のスカエナ向かいの地下酒場と鉄砲鍛冶の家に見るられる。桶職人の工房では,円柱を1本見ることが出来,同様にサン・ニコロ[ニコラ]・イン・カルチェレ教会の礼拝堂の大祭壇後方の小さな中庭にも円柱を見ることができ,アーキトレーヴはサン・ニコラ教会の壁面に埋め込まれており,[次の図版へ続く]イオニア式のその柱頭やコーニスは,教会堂の外側に出て,教会の鐘楼へと昇り,そこからこれらの遺構を調査するために屋根に降りると,ストゥッコで覆われたこれらの遺構が見られる。サン・ニコラ教会のファサード右手には,ピエタス神殿23と呼ばれたドリス式の神殿の円柱とトラヴァーチン製のコーニスが壁に埋め込まれ,ストゥッコで覆われていたのを見ることができる。アウグストゥス帝は,劇場の周囲にこの劇場に必要な3つの建物を作ったことが分かる。それはつまり,ガイウスとルキウスのバシリカ,ガイウスとルキウスの柱廊,ポルティクス・オクタウィアエ[オクタウィア回廊]のことである。『カンプス・マルティウス』図版14,『ローマの古代遺跡』第4巻参照のこと。180. マルケッルス劇場の遺跡で,それによってモンテ・サヴェッリと呼ばれる墳丘が形成された。現在はオルシーニ館となっている。『ローマの古代遺跡』第IV巻,図版25から37〔に示した〕。181. タルペイア24の岩の頂きにある,カピトリヌス城塞の城壁の遺構で,カッファレッリ家の館の庭園に見られる。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版43〔に示した〕。182. カッファレッリ館は,カピトリヌス城塞の遺構の上にトッレ・デ・スペッキに面して位置している。コロンナッチェと通称される場所におけるネルウァ帝のフォルムヘと戻られたし。183. トル・デ・コンティ近くのコロンナッチェと通称される,同ネルウァ帝のフォルムの別の遺跡。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版30,図2〔に示した〕。184. カエサル・アウグストゥス帝の〔実際はユリウスのあるいはカエサルの〕フォルムの商店等の遺構。マルフォリオの坂の小路とサンタ・マルティーナ教会脇の別の小路の間に位置する,サンティッシマ・トリニタ教会とアンジェロ神父の救護所辺りの建物の端にある。185. 現在は〔サンタ・マリア・イン・〕アラチェリ教会と修道院によって占められている,ユッピテル・フェレトリウス[戦勝・戦利品を与えるユッピテル]〔ロムルスが初めての戦利品を飾った樫の木を指すとの解釈がある〕神殿とマルス神殿があったと一般に言われている場所。186. マメルティーノ小路と呼ばれていた,現在のマルフォリオの坂道における古代の建物の壁体の遺構。これらの遺構は,現代の家々の壁体を支えている。というわけで,これらは,上述の古代の小路の的確な状況を物語っている。187. モンガーナ広場のアルティエーリ家と隣のサンタ・マリア・イン・ポルティコ教会の神父らの家の地下にある,オクタウィアの図書館25の遺構。188. トッル・ディ・スペッキのオブレート修道会26の修道女の建物,つまり修道院。189. サンタ・マリア・イン・ポルティコ[あるいはカンピテッリ]教会。190. ポルティクス・オクタウィアエ[オクタウィア回廊]の遺跡で,現在はサンタンジェロ・イン・ペスケリア教会のプロナオスとして使われている。『ローマの古代遺跡』第IV巻,図版39から44〔に示した〕。191. ユノ神殿〔実際はアポロ・ソシアヌス神殿〕の大建造物のプロナオスの名残りである溝が刻まれた3本の大理石製円柱で,魚市場近くのアルトベッリ氏の家の壁に半ば埋まっているのが見える。その隣のフランチェスコ・バッティラーナ氏の家の地下倉庫には同神殿の神室の遺構が見える。『ローマの古代遺跡』第IV巻,図版44と45〔に示した〕。192. ユダヤ人地区。193. バルブス劇場〔実際の遺構はここではない。付属の回廊は現在のローマ国立クリュプタ・バルビ博物館の地下に見られる。〕の基礎部分の遺構〔実際は,おそらくカンプス・マルティウスに前30年頃,スタティリウス・タウルスによって建設されたという円形闘技場が64年の大火によって焼失した後かと思われる。〕で,その残骸はレゴラ区に盛り上がった墳丘を形作っている。テヴェレ川岸そばのチェンチ館地下の飲食店において見ることができる。『カンプス・マルティウス』図版28〔に示した〕。194. チェンチ館。195. サンタ・マリア・イン・カカベリス教会の脇にある,ポルティクス・フィリッピ[フィリップス回廊]の遺跡。『カンプス・マルティウス』図版29〔に示した〕。196. サンタ・クローチェ館。サン・ロレンツォ門外の左手へと進まれたし。197. 続く198番〔の位置〕までは,アルカディウス帝とホノリウス帝によって再建されたローマの市壁。198. 後世の様々な時代に再建された市壁。199. 閉ざされたアウレリアヌス帝の〔市壁の〕門。

版画銘文・版刻文2の訳注:マテル・マトゥタは,ローマ人の間ではギリシャ人にとってのレウコトエLeucothoe/Leucotheaに相当する女神とされた。元々はイノInoとされていた女神が海の女神へと変えられ,それ故に船乗り達などに崇拝された。既婚女性と自由民の子を持つ婦人のみが神殿内に入ることを許された。ローマにおいては,彼女達は兄弟の子供など血縁関係のある子供達を腕に抱いて入り,その子達のために誓願を立てた。暁の女神という説もある。 このテヴェレ川沿いにある円形の神殿,いわゆるウェスタの神殿〔実際はヘラクレス・ウィクトル神殿〕は,12世紀初頭にサント・ステファノ・デッレ・カロッツェ教会として改変された。16世紀半ばには,太陽光を放射する絵画がテヴェレ川から発見されたという故事によって,サンタ・マリア・デル・ソーレ教会とも呼ばれた。カト(前234年-149年)は,フラックス(前180年没)と共に前195年に執政官に就任し,ヒスパニアで軍事的成功を納める。さらに前184年には共に監察官に就任した。国家の道徳の番人として,政敵であったスキピオ家やフラミニヌスを攻撃し,その経歴が独裁への危険な傾向を示していた人々へ対して厳しくあたり,贅沢やギリシャ文化の流入をローマの道徳的退廃の原因として反対した。今日,この戦勝記念碑は,ドミティアヌス帝によるゲルマニア遠征を記念するもであり,それらがセウェルス・アレクサンドル帝による記念建造物に再利用されたのだという説が一般的である。かつてはユリウス水道の貯水槽〔セウェルス・アレクサンデルの泉水堂〕を飾っていたが,現在は取り外されて,カピトリーニ博物館前広場の階段上の欄干を飾っている。マリウスとは,共和政期の執政官,ガイウス・マリウス(在前107年,104年-100年,86年)のことである。彼はローマに初めて職業軍隊を導入した人物であり,前105年までにマリウスは長引いていたユグルタ戦争を終結させ,ローマで凱旋式を挙げた。また前101年にはウェルケラエ(現ヴェルチェッリ)でキンブリ族に壊滅的打撃を与えた後にも凱旋式を挙げている。ミニミ修道会は,フランチェスコ修道会の支会の1つであり,ミニミとは「最も小さき者の会」の意味である。この修道会を創立したパオラのフランチェスコは、霊的父なるアッシジのフランチェスコの謙遜と清貧とを、生涯守りつづけた。1416年,イタリアのカラブリア州パオラで生まれ、1507年4月2日、フランスのプレシ・レ・トゥールにおいて91歳で没。1519年5月1日に,証聖者に列聖された。この塔は,かつて,コンティ家の要塞化された複合建築の一部であり,中世においてはその堂々たる姿から,「トッレ・マッジョーレ(大塔)」とも呼ばれた。地震で倒壊し,現在は塔の基礎の部分が一部(高さ29m)残るだけである。建設は869年頃始まったようだが,最終的に出来上がったのは,1238年になってからで,教皇インノケンティウス3世の兄弟である,リッカルド・コンティがその所有者であった。フランチェスコ・ペトラルカは,1348年の地震の際のこの塔について書き残している。 皇帝ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス(在37年-41年)は,通称カリグラ帝のことである。「カリグラ」(小さな半長靴)のあだ名は,14年のライン軍団暴動の際,兵士のマスコットになっていたわずか2歳の彼が暴動を鎮めるために前に引き出されたことに由来する。 ニッコロ[ニコラ]・ディ・リエンツォの家 と呼ばれているのは,クレシェンツィ家の家のことで,間違ってコーラ・ディ・リエンツォ(=ニッコロ・ディ・リエンツォ)の家,コーラ・ディ・ピラトの家とも呼ばれている。おそらくクレシェンツィ家の塔の残部で,この一族は10世紀末のローマにおける有力な家族であった。この建物は1040年から1065年にまで遡る,古代の装飾建材を再利用した中世建築の興味深い例である。 実際は,アエミリウス橋は,前181年-179年にマルクス・アエミリウス・レピドゥスとマルクス・フルウィウス・ノビリオレによって木製の橋渡り部分を支える支柱が建てられ,さらに前142年には,プブリウス・スキピオ・アエミリアヌスとルキウス・ムンミウスによってアーチを架けられた。スキピオ・アフリカヌスは,ヒスパニア,アフリカ,小アジアの征服者であり,ローマの世界支配の建設者の中でも傑出した人物であった。前206年までにカルタゴ人をヒスパニアから駆逐し,ローマ支配下においた。205年に執政官に選出され,202年にはそれまで無敵であったハンニバルに決定的な敗北を与え,イタリアに帰還して盛大な凱旋式を挙行し,「アフリカヌス」の添え名を得た。199年にケンソルに就任した際には,まだ37歳の若さであり,その若さと多くの類似点から彼はアレクサンドロス大王と比較された。194年には2度目の執政官を務め,190年には小アジアに初めてローマ軍を進めた。183年没。ルキウス・ムンミウスは,軍功をあげた将軍で,前153年にはヒスパニア,執政官を務めた146年にはギリシャ遠征のために2度凱旋式をあげた。執政官の時,アカイア同盟の反乱を鎮圧し,その後その同盟は消滅した。勝利の余勢を駆って,コリントスの組織的略奪に走り,莫大な戦利品をイタリアに運び去った。エピダウロスはペロポネスス半島のアルゴリス北部にある町で,有名な医神アスクレピオス神殿を持つ,同神の信仰で有名な町である。アスクレピオスは,アポロと王女コロニスの間の子供だが,アスクレピオスをまだ身ごもっている時に王女が他の男に心を移し,アポロは嫉妬で逆上して彼女を矢で射殺した。母の胎内から取り出された赤子は,ケンタウロス族のケイロンに養育を任され,彼から医術を学び,長じて医神アスクレピオスとなった。彼はティベリス島に蛇の姿でやってきたと考えられた。彼は髭を生やし,手に蛇の絡まった杖を持つ姿で表される。 ローマに現存する最古の橋。執政官ルキウス・ファブリキウスが,紀元前62年に建て,現在までほとんど手付かずのまま残っている。ティベリス島とトラステヴェレを結ぶ橋で,紀元前46年にルキウス・ケスティウスにより建てられた。370年にウァレンティニアヌス帝,ウァレンス帝,グラティアヌス帝らによって修復され,1892年に部分的に大改修されている。グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(前106年-48年)は,卓越した軍事的指導者で,共和政末期の約30年間を支配した。ローマの第4区で,カエリウス丘とエスクィリヌス丘の間の場所。現在のサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会の辺り。サンタドリアーノ教会は,教皇ホノリウス1世〔在625年-638年〕がクリア・ユリアを改修してニコメディアの殉教聖者ハドリアヌスに献じた教会で,ムッソリーニ時代の1937年にクリア・ユリアを復元するために教会に関する部分は撤去された。マメルティヌスの牢獄は,現在はカピトリヌス丘麓のサン・ジュゼッペ・デイ・ファレニャーミ教会の地下にある。おそらくローマ時代には井戸tullusがあったことからトゥッリアヌムTullianumと呼ばれており,マメルティヌスの牢獄という呼称は古典文学には現れず,中世になって使徒ぺトロが捕われていた牢であったという伝説が広まり,後のその土地の所有者の名から取られたものである。紀元後39年から42年の間にトラヴァーティンの石組みで出来たファサードが,コンスルであったC.ウィビウス・ルフィヌスとM.コッケイウス・ネルウァによって作られた。紀元前55年,カンプス・マルティウスのポンペイウス劇場に接して作られた回廊。ポンペイウスのクリアともいう。 アントニオ・ラバッコ(1495年?生-1567年8月14日以降没)は,イタリアの建築家,版画家,著述家である。教皇クレメンス7世のためにパルマとピアチェンツァの町の防備を固める事業を進め,1527年のローマの略奪の後に古代のモニュメントの修復や新しい建築の建設計画に携わった。ウフィツィー美術館に納められているヴァザーリコレクションなどに含まれる多くの現存する素描から,ヴァティカン博物館の木製モデルやローマのサン・ピエトロ聖堂のデザインを作ったアントニオ・ダ・サンガッロと関わりがあったことが分かる。1546年から18年の間にラバッコは,サンガッロのデザインの3枚の版画も出版している。彼の最後の活動の記録は,1567年にサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂とその洗礼堂に関わるものであった。彼の最も重要かつ影響を及ぼした仕事は,1552年に出版されたLibro d'Antonio Labacco appartenente a l'architetturaであり,そこで彼はローマの主要ないくつかの遺跡について,その復元を試みている。 実際は,現在サン・ニコラ・イン・カルチェレ教会の北壁に取り込まれている,フォルム・ホリトリウムにある共和政末期の神殿群の列柱廊の一部のことである。ピエタス神殿は,マルケッルス劇場建設に伴いカエサルがフォルム・ホリトリウムに再建した神殿である。カピトリヌス丘にあり,ここから国事犯を突き落とした。 オクタウィアの図書館は,ポルティクス・オクタウィアエ[オクタウィア回廊]に含まれ,オクタウィアがその名において紀元前23年以降に奉献したものである。ギリシャ語部門とラテン語部門に分かれており,最初の館長はマエケナス家の解放奴隷,ガイウス・メリッススであったとされる。紀元後80年に起きた火災によっておそらく図書館も焼け,ドミティアヌス帝によって再建されたとされるがその正確な位置は不明である。1433年にサンタ・フランチェスカ・ロマーナが設立したフランチェスコ派女子修道院で,トッル・ディ・スペッキ(鏡の塔)の名は,窓の形から来ている。

Volume/巻番号:16

Plate/葉番号:3

Kamei Collection Number/亀井文庫番号:684

Firmin-Didot Number/Firmin-Didotレゾネ番号:684

Negative Film Number/ネガ記載番号:16003

Image Number/画像シリアル番号:825

Image Size/画像実寸:462X697

Plate Size/プレート実寸:470X706

Calcografia volume number/Calcografia巻番号:SEDICESIMO

Calcografia Number/Calcografiaレゾネ番号:684

H.Focillon Number/H.Focillonレゾネ番号:719,600

H.Focillon's description:600. Trois pl. assemblées: a) et b) Le plan propr. dit. -- Le titre en haut. -- Sig. dans une pierre fruste, au milieu du filet qui sépare a et b. -- H. 0.94, L. 0.705. -- Fil. d'encad.719. (2) Place ordinaire du plan de Rome et du Champ de Mars. V. Deuxième partie, J.

H.Focillon記述 [H.Focillon's description]:600。3枚組みの図版:a)とb)は本来の意味での地図。−タイトルは上部。−aとbを分離している線の中央にある,荒削りの石盤に署名。−高さ0.94,長さ0.705。−枠線。719。(2) ローマおよびカンプス・マルティウスの地図の一般的な場所。第二部,Jを参照。

J.W.Ely Number/J.W.Elyレゾネ番号:1008

J.W.Ely's Title:Plan of Rome and the Campus Martius.

subject:maps

Calco_tav_no:tav. 1

subcategoria:dedications

コレクション名

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