Pianta di Roma e del Campo Marzio col relativo Indice e la dedica a Clemente XIII; in tre fogli, e titolo riportato.

別資料名
ローマとカンプス・マルティウスの地図〔3枚組の3〕
言語
イタリア語
種別
静止画資料
編著者
Giovanni Battista Piranesi
編著者(ヨミ)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ
内容記述

Series Title:VEDUTE DI ROMA

シリーズタイトル [Series Title]:ローマの景観

版画銘文・版刻文1 [Inscription 1]:200 ディオクレティアヌス帝〔在284年-305年〕の浴場の微温浴室〔実際は,浴室棟に属さない部分〕,あるいは貯水槽の壁を示す線で,その遺構はネグローニ荘1に見ることができるように一部壊れており,また一部は地中に埋まっている。201. サンタ・プデンツィアーナ教会。202. 部分的にサンタ・プデンツィアーナ教会および周辺の家々によって占められ,残りの部分が向かいのバンビーノ・ジェズ教会の庭にあるノウァトゥスの浴場2の遺構。203. ウィミナリス丘の支持体の遺跡で,その上にはアグリッピナの浴場とオリュンピアスの浴場が位置していたが,それらはサン・ヴィターレ教会にある,イエズス会の菜園の向かいに残っている。204. ロスピリオージ家の庭園。205. ロスピリオージ館。この館の壁体は,コンスタンティヌス帝〔在307年-337年〕の浴場の遺構上に据えられているが,マルリアーノ3によって言及された,この皇帝の名前を記したある碑文によってこのように考えられている。同様に204番の前述の庭園や近くの皇帝達の庭園にも同じ古代の壁体を見ることができる。そして,Pの文字で示したアルドブランディーニ家4の庭園には別の半円形の大きな壁体の遺構がある。206. サンティ・ドメニコ・エ・シスト教会。207. サンタ・カタリーナ・ディ・シエナ〔サンタ・カテリーナ・ダ・シエナ〕教会と修道院。この修道院はトラヤヌス帝の浴場〔「市場」〕の遺跡の上〔近く〕に位置している。この遺構は,広間,カリダリウム[温水浴室],微温浴室からなり,これらの壁には床下暖房,あるいは風呂釜から古代の床下へと続く管を見ることができる。これらの管は古代と現代の建物が接している地上部分や,修道院の地下貯蔵庫で見ることができる。これらの建物全ては前述の浴場とそして同修道院に隣接するチェヴァ侯の館に残っているものと関連がある。前述の館の向かいの家々の地下貯蔵庫には,同浴場に帰される他の遺構がある。同修道院には,後世になってその浴場の建材を用いて建てられた,マエケナスの塔と俗称される大きな塔が見える。208. 同浴場に隣接した建物で,トラヤヌス帝〔在98年-117年〕のオデウム[音楽堂]の遺構〔実際,今日「トラヤヌス市場」と俗称される遺構〕。誤ってトラヤヌス帝のフォルムのカルキディクム〔通廊,アーケード〕と考えられている。前述の遺構は,石工の所やカンポ・カルレオのルスポリ庭園において見ることができる。『ローマの古代遺跡』第I巻〔に示した〕。209. 5"#">トラヤヌス帝の記念柱5。その碑文は,トラヤヌス帝が,バシリカ〔・ウルピア〕,図書館,ポルティクス[列柱廊],神殿,アーチ,浴場,オデウム,体育場などを伴うフォルムといった壮大かつ巨大な建造物を建てるために,クィリナリス丘の一部を平らに均したと私たちに伝えている〔実際は,このフォルムには浴場,オデウム,体育場は附随していない〕。『ローマの景観』参照のこと。210. マルフォリオ坂の突き当たり,マチェル・デ・コルヴィの向かいにある,ガイウス・プブリキウス・ビブルスの墓の遺構。E. トラヤヌス帝のフォルムの一部を為すと思われる,クラウディウス一族やその他の人々の墓。211. サン・マルコ教会。212. ボネッリ館〔ヴァレンティーニ館〕。この館の脇にサンタ・マリア・ディ・ロレートとサンティッシモ・ノーメ・ディ・マリアの2つの教会がある。213. ボロニェッティ館。214. ウィッラ・プブリカの遺跡で,その上の一部にヴェネツィア共和国の公館[ヴェネツィア宮]が,また一部にサン・マルコ教会が建っている〔実際,ウィッラ・プブリカの遺構は見つかっておらず,おそらくジェズ教会の北側に位置していたものと考えられている〕。215. アステ館。216. ヴェネツィア宮。217. ジェズ教会。218. サン・ニコロ・ア・チェザリーニ教会[サン・ニコラ・デ・チェザリーニ,あるいはサン・ニコラ・デ・カルカラリイス教会]。219. キルクス・フラミニウス6[フラミニウス競走場]そばのアポロ神殿の遺構で,〔サン・ジローラモ・エミリアーニ・ア・〕ソマスカ同信修道会7の修道院中庭にある。『カンプス・マルティウス』図版17参照のこと。220. サン・カルロ・アイ・カティナーリ教会。221. サクロ・モンテ・ディ・ピエタ。222. サンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーニ教会。223. スパーダ宮8。224. ポンペイウス劇場の段状観客席の支持体の遺跡で,カンポ・ディ・フィオーレ[カンポ・デイ・フィオーリ]のピオ公の館9と「楽園のパン工房」やその他の家々の場所にある。225. ピオ公の館。226. カンポ・ディ・フィオーレ広場。227. ファルネーゼ宮10。ディオクレティアヌス帝の浴場に目を移されたし。228. サンタ・マリア・デッリ・アンジョリ[アンジェリ]教会。ディオクレティアヌス帝の浴場の広間の1つの内部を装飾した教会である。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版28から24〔に示した〕。229. バルベリーニ家の庭園にある,ディオクレティアヌス帝とサビヌス・ウェスパシアヌス〔おそらくティトゥス帝のこと〕の邸宅の遺構。230. ケレス神殿とアグリッピナの浴場の遺構で,イエズス会誓願修道会[サンタンドレア・アル・クィリナーレ]教会とサン・ヴィターレ教会の間の菜園の中にある〔むしろこちらがティトゥス・フラウィウス・サビヌス・ウェスパシアヌスの家の跡と考えられている〕。231. イエズス会誓願修道会のサンタンドレア[・アル・クィリナーレ]教会。232. コンスルタ館〔1955年より憲法院〕。『ローマの景観』参照のこと。233. クィリナーレ《クィリナリス丘》にある教皇宮殿[クィリナーレ宮]。『ローマの景観』参照のこと。234と235. 剣闘士の学校としてトラヤヌス帝によって建てられたギュムナシウム[体育場]の遺跡。後にエラガバルス帝〔在218年−222年〕によって女性のための集会場に改変された。誤ってコルネリウス家の住宅とも呼ばれている。コロンナ宮の館と庭から見える〔現在では,「セラピス神殿」の遺跡と考えられている〕。236. コロンナ宮。237. サンティ・ドーディチ・アポストリ教会[聖十二使徒教会]。238. ムーティ・パパッツッリ館。〔現バレストラ館〕239. オデスカルキ館。『ローマの景観』参照のこと。240. フランスアカデミー。『ローマの景観』参照のこと。241. サン・マルチェッロ教会。242. サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラータ教会の地下にあるサエプタ・ユリア[投票所]のポルティクス11の遺跡。『カンプス・マルティウス』図版25〔に示した〕。243. 部分的にサエプタ・ユリアのポルティクスのヴォールト天井や支柱の上に建てられた〔ドーリア・〕パンフィーリ館12〔現在考えられているサエプタ・ユリアの位置からは外れている〕。244. マレスコッティ館。245. スティンマテ・ディ・サン・フランチェスコ教会。246. サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会。247. サンティ・ロレンツォ・エ・ダマゾ教会。248. サン・トンマーゾ〔・ディ・カンタベリー〕教会。イギリス神学校。249. サン・ジローラモ・デッラ・カリタ教会。250. サンタ・マリア・ディ〔イン〕・モンセッラート教会。ディオクレティアヌス帝の浴場向かいの,近衛兵の陣営[カストラ・プラエトリア]がある地点の市壁へと戻られたし。251. イエズス会誓願修道院教会の葡萄畑にある,近衛兵の陣営のクシュストス[列柱廊形式の遊歩廊]。252. ポメリウム〔古代ローマの市壁に沿った聖域で耕作,居住は出来なかった〕として整地するために,アウレリアヌス帝〔在270年-275年〕によって半ば取り壊された古代の建物の遺跡。253. 近衛兵の陣営の遺跡で,その上にはこの位置に当たるアウレリアヌス帝のローマの市壁13が建っている。マクセンティウスの指揮下で戦っていた守備隊を捕らえるために破壊された後,コンスタンティヌス大帝によって修復された。254. ディオクレティアヌス帝の浴場から近衛兵の陣営に通じる地下道で,数年前に発見された。255. 改革派修道会[三位一体修道会]14のサン・カルロ〔アッレ・クァットロ・フォンターネ〕教会の向かいにある,アルバーニ館〔現ドラーゴ館〕。256. クァットロ・フォンターネ。トレヴィの泉へと向かわれたし。257. トレヴィの泉。『ローマの景観』参照のこと。258. コロンナ・ディ・シャッラ宮。259. サンティニャーツィオ教会。260. マルクス・アウレリウス帝〔在161年-180年〕によって建造されたアントニヌス・ピウス帝の神殿〔実際は,アントニヌス・ピウス帝によって建立されたハドリアヌス神殿〕遺構の上にあるアーキトレーヴを伴う縦溝の刻まれた円柱。『カンプス・マルティウス』図版24と25,そして『ローマの景観』参照のこと。261. ローマの〔イエズス会〕神学校。262. サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会。263. 教会アカデミー館にあるアグリッパのクシュストスの遺構。同館の裏の家々や商店,そしてパンテオン裏の通称チャンベッラ小路においてもこれら〔アグリッパ〕の浴場の別の遺構が見える。『カンプス・マルティウス』図版24参照のこと。264. アグリッパのパンテオン15。『ローマの古代遺跡』参照のこと。同作品集においてこの建物について詳細に論じたとはいえ,アテナイのディオゲネスによって彫られた女性柱像の古代の状況について論じることは省いていた〔ので改めて触れる〕。プリニウスは『博物誌』の第XXXVI巻16において「アテナイのディオゲネスがアグリッパのパンテオンを飾った。そしてその円柱の中に女性柱像が・・・(ある。)」と言及している。この一節の説明は,同作品集のパンテオンの素描において説明するつもりでいたが,時間が足りなかったので省いたものである。この場において,博識なる方々にプリニウスの言葉による説明をその証拠として示すことで喜んでいただけるとことと思う。これらの女性柱像は,彼が(IN COLVMNIS)と述べているように,円柱の中に設置されており,円柱と円柱の間にそれらが配されていたり,円柱の代わりに配されていたということを意味しているのではない。女性柱像には,脇の2つの祠の台を支えている8体と,その向かい側にある,黄色い大理石の円柱を持つ別の4つの祠の間に配されている別の2体も含まれている。そして祠には円柱が女性柱像の代わりに配されているが,それらは花崗岩や斑岩製で柱頭は大理石であり,前述の4つの祠の台石は異なる建物から取り去られてきたものである。これらの8体の女性柱像のうち2体は,ほっそりとした若い女性として表されており,不完全な形ではあるが現存している。これらのうち1体は,柱頭の代わりに頭上に篭を載せており,その篭を片腕で支えている。これは両シチリア王国17の指示によりナポリへと運ばれたが,1763年まではファルネーゼ宮の中庭に置かれていた。頭と篭のない別の1体は,同宮殿の牡牛の部屋に置かれていた。両方とも古代の台座から足が欠けており,完全に腕も失われている。現代の古物愛好家は,どこにこれらが設置されていたか知らずに,エピスカエニウム〔舞台背後の建物上層〕や,あるいは屋階に置いた。だがこの不適切な状態ではなく,今や存在しないが,かつて古代にはみられたわずかに突出する様子をいつかはお見せすることができるであろう。そして他の人々は礼拝堂の円柱の下にそれらを配したり,属州の寓意像を女性柱像と見なした。それらは台石に浅浮彫りで彫られているもので,ファルネーゼ宮の中庭に見られ,他にもオデスカルキ宮の階段にも複数あり,カンピドリオのコンセルヴァトーリ宮の中庭にも1体あるが,それらはピエトラ広場から程近い場所における発掘で発見されたものである。265. 同教会〔パンテオンを指す。パンテオンは609年/610年にサンタ・マリア・アド・マルティレス教会として奉献され,その後サンタ・マリア・ロトンダ教会と通称された。〕の裏手にある,前述の浴場に属する壁の遺構〔実際は,ネプテュヌスのバシリカ〕。266. サンテウスタキオ教会。267. パンテオンの玄関の間,あるいは他と同様アグリッパによる遺構。268. ネロ帝〔在54年-68年〕の浴場,あるいはアレクサンデル・セウェルス帝〔在222年-235年〕の浴場と考えられている遺構。ゴヴェルノ・ヴェッキオ宮〔現ナルディーニ館。かつてはローマ教皇庁の司法府と行政府が置かれていた。〕の中庭にはいくつかが見られるが,官邸を拡張するためにほとんど完全に壊され,1757年には新しい漆喰で古代の壁体は覆われてしまった。269. サピエンツァ大学。270. サン・ジャコモ・デ・スパニョーリ[ノストラ・シニョーラ・デル・サクロ・クオーレ]教会。271. 陸上競技用のキルクスの周縁,あるいは現在のナヴォーナ広場の空間。『ローマの景観』参照のこと。272. 273. 前述のキルクスの遺跡で,その上にはサンタニェーゼ教会が建っている。『カンプス・マルティウス』図版32と『ローマの景観』参照のこと。274. サン・パンタレオーネ教会。275. カラッチョリ館。276. サンタ・マリア・デッラニマ教会。277. サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会。278. マルス神の祭壇の古代の囲いの遺跡で,グラナーリ小路にて見ることができる。279. サンタ・マリア・イン・ヴァッリチェッラ[ヌォヴァ]教会。280. スフォルツァ・チェザリーニ館。281. サッケッティ館。282. サン・ジョヴァンニ・デ〔デイ〕・フィオレンティーニ教会。ピア門近くの市壁外へと戻られたし。283. 古代の墓地の遺跡上にアウレリアヌス帝〔在270年-275年〕によって建てられた塔。この塔と,ノメンターナ門の脇にある,2つの塔のうち現在は閉ざされている1つが監視塔として使われていた。284. マンドージ荘にある18"#">サッルスティウスの邸宅と浴場18の遺跡。『カンプス・マルティウス』図版42と43参照のこと。285. サッルスティウスのキルクスの上にある,アウレリアヌス帝の市壁以前のローマの市壁の遺跡。『カンプス・マルティウス』図版41参照のこと。286. バルベリーニの菜園にある,同市壁の別の遺跡で,そこにはフローラのキルクスと呼ばれる小さな遺構のいくつかを見ることができる。287. サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会の裸足のカルメル修道会19の菜園にある,禿頭のウェヌス神殿20の遺構。288. サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会。『ローマの景観』参照のこと。289. サンタ・スサンナ教会の庭にある,ディオクレティアヌス帝のニュンファエウムの遺構。290. サン・ニコラ・ダ・トレンティーノ教会。291. バルベリーニ宮21。『ローマの景観』参照のこと。292. カプチン修道会のサンティッシマ・コンチェツィオーネ[サンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ]教会。293. ロザッラ通りにある古いカピトリウムの遺跡で,その上にはグリマーニ館が建っている。294. サン・ジュゼッペ・ア・カーポ・レ・カーゼ教会。295. サンタンジェリ・クストーディ教会向かいの家々にある,ウィルゴ水道の水道橋のアーチの先端。同様のアーチが現パンフィーリ家となっているコロッツィ家の邸宅に沿ったブファロ候の邸宅の中庭から,同水道の新しい貯水槽まで続いている。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版12,図2〔に示した〕。296. サンタンドレア・デッレ・フラッテ教会。297. ナザレ寄宿学校22。298. コンティ館23。299. サン・クラウディオ・デ・ボルゴニョーニ[サンティ・アンドレア・エ・クラウディオ・デイ・ボルゴニョーニ]教会の近くにある,エウロパのポルティクス24の遺構。300. マルクス・アウレリウス帝の記念柱25。『カンプス・マルティウス』図版2と『ローマの景観』参照のこと。301. 巨大な雲母大理石(シポリン)でできた7本の円柱。それぞれ一材でできた丸彫で,そのうち4本はカプラニカ広場のガポナーロの店やその近くの家に見ることができる。他の3本は1764年まで聖ロザリオ信心会の本部にあったが,新たに改修工事を行うために壊されてしまった。これらの円柱は,かつてのユトゥルナ神殿〔ラルゴ・アルジェンティーナの共和政期の神殿の一つ〕のものであった。切れ込みの入った花崗岩でできた別の1本の円柱がオルファネッリ小路に見えるが,それにウィルゴ水道の貯水槽のものである大きな鉛管がもたれ掛かっている。『ローマの古代遺跡』第I巻,図版14と『カンプス・マルティウス』参照のこと。302. サンタ・マリア・イン・アクィロ教会。303. サンタ・マリア・マッダレーナ教会。304. サン・ルイージ・デ・フランチェージ教会。305. サンタゴスティーノ教会。306. サンタポリナーレ教会。307. アルテンプス館。308. ガブリエッリ館。309. サン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ教会。310. 凱旋橋[ネロ橋]の橋脚の1本の遺構。大きなトラヴァーチン、ペペリーノ[火山砕屑岩]からなり,割石積み工法で作られている。これはテヴェレ《ティベリス》川の河岸において,特に夏場に水が引くと露出して見える。『ローマの古代遺跡』第4巻,図版13〔に示した〕。311. 現在は完全に撤去されてしまったアウレリアヌス帝の凱旋門がかつてあった場所を示している。サラリア門そばへと戻られたし。312. ヴェロスピ荘にあるサッルスティウス荘〔庭園付き邸宅〕の別の遺跡。313. 上記の庭園付き邸宅あるいはベッローニ荘の地中に埋もれた別の遺跡。314. コッリス・ホルトゥロールム〔ピンキウス丘の北西部〕の麓にある,アポロンのキルクスの遺跡。315. ヴィッラ・チェージにある,クィリヌスのポルティクス[列柱廊]26の遺構。316. サンティシドーロ教会。317. ミニャネッリの邸宅にある,ルキリウス荘の遺跡。318. プロパガンダ・フィーデ〔布教文書〕館。319. ミニャネッリ館。320. スパーニャ館。321. サン・シルヴェストロ・イン・カピテ修道院の周囲を巡る壁と貯蔵庫にあるサエプタ・トリガリアの遺跡〔実際は,アウレリアヌス帝の建立による太陽神の神殿〕。322. サン・シルヴェストロ・イン・カピテ教会。323. キージ館〔ピラネージのGhigiはChigiのこと。現首相官邸〕。『ローマの景観』参照のこと。324. スタティリウス・タウルスの劇場27遺跡〔実際のところ,この地点に位置していた形跡は認められていない〕の上に建てられたインノケンティウスのクリア〔現モンテチトーリオ宮殿〕28。『ローマの景観』〔に示した〕。325. サンティッシマ・トリニタ・デ・ミッショナーリ教会。326. 教皇アレクサンデル7世〔在1655年-1667年〕の治世下,コルソ通りを拡張するためにマルクス・アウレリウス帝の記念門の遺構を一掃してしまった場所。その浮彫りは,現在カンピドリオ〔カピトリーニ博物館〕にある。『カンプス・マルティウス』図版36参照のこと。327. オットボーニ館[フィアーノ館]29。328. サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会。329. アウグストゥス帝の日時計として使われたオベリスクが地面に横たわっているのが見える〔見つかった〕場所〔当時,既にベルニーニが移設していた〕。そう遠くないところで,程近くの家の建物の角には現代の銘文を読むことができ,そこでオベリスクが発掘されたことが示されている。『カンプス・マルティウス』図版2参照のこと。330. ルスポリ館。331. ボルゲーゼ館。332. クレメンティーノ神学校30。333. サンタントニオ・デ・ポルトゲージ教会。サラリア門の脇へ向かわれたし。334. 別の円筒形の塔。その他に教皇クレメンス11世〔在1700年-1721年〕の時代に閉ざされ別の門が見える。335. 後世に再建された壁体の部分。336. 古代の墓地の遺跡の上に一部が懸かって建っている塔。337. サンティッシマ・トリニタ・ディ・モンティ教会。『ローマの景観』参照のこと。338. サン・カルロ・アル・コルソ[サンタンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ]教会。339. アウグストゥス帝の廟の遺跡で,その上には,コレア候の館が建てられている。『ローマの古代遺跡』図版61,62,63,『カンプス・マルティウス』〔に示した〕。340. サン・ロッコ教会。341. サン・ジローラモ・デ・スキアヴォーニ[サン・ジローラモ・デッリ・イッリリチ]教会。342. ナーリの菜園にある,別の墓地の遺跡。343. チェンチの菜園にある,アウグストゥス帝の一族の墓地の1つの遺跡。344. 345. アウグストゥス帝の〔時代の〕墓の囲いの遺跡。かつて支持体であった部分のほんの一部が現在も建って残っているが,墳丘を包囲し,その上に上述の墓の囲いが作られた。 別の古代の墓も残された。グナエウス・ドミティウス〔・アヘノバルブス〕の墓。『ローマの古代遺跡』カピトリーノの地図〔フォルマ・ウルビス・ロマエを意味する〕断片,第I巻,『カンプス・マルティウス』図版22〔に示した〕。346. アウレリアヌス帝より後世に再建された市壁。その近くの門は誤ってフラミニア門と呼ばれていたが,古代の市壁にベリサリオス〔6世紀,東ローマ帝国の将軍〕が作ったものである。このフラミニア門は,古代における,ピンキアナ門と同じものである。『ローマの古代遺跡』と『カンプス・マルティウス』参照のこと。347. サンタ・マリア・ディ・モンテ・サント教会。348. サンタ・マリア・デ・ミラコーリ教会。349. テヴェレ川の河岸にある,控え壁の遺構。350. サンタタナジオ・デ・グレーチ教会。351. ジェズ・エ・マリア教会。352. サン・ジャーコモ・デッリンクラービリ[サン・ジャーコモ・イン・アウグスタ]教会。トラステヴェレのリーパ・グランデ〔大河岸〕にある,オスピツィオ・アポストリコ・ディ・サン・ミケーレ〔サン・ミケーレ使徒救護院〕へ向かわれたし。353. オスピツィオ・アポストリコ・ディ・サン・ミケーレ。『ローマの景観』参照のこと。354. サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会。355. サンタ・マリア・デッロルト教会。356. サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会。357. アウグストゥス帝のナウマキア[模擬海戦用施設]の痕跡と同ナウマキア近くのアルシエティナ水道の導管と貯水槽の遺跡であり,この導管はサン・パンクラツィオ門外においても見ることができる〔アルシエティナ水道の導管の大半は地下にあった。サン・パンクラツィオ門付近の遺構は,トラヤヌス水道のものである〕。『ローマの古代遺跡』〔に示した〕。358. 359.360. 361. アウレリアヌス帝の市壁の遺跡で,後世になって,より長い距離に修復された。362. サン・コジマートと通称される,サンティ・コジモ〔コスマ〕・エ・ダミアーノ教会31。363. サン・クリソーゴノ教会。サン・カリスト門へ向かわれたし。364. サン・ガッリカーノ教会〔あるいは同病院〕。365. サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会。366. サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会。367. サンタントニオ・ディ・パドヴァ礼拝堂の下にある,ジャニコロ砦の支持体の遺構。368. パッラージアの森[アルカディア派の森,アルカディア派の劇場]32。369. サンタ・マリア・デッラ・スカーラ教会。370. コルシーニ館。371. サンタ・マリア・レジーナ・チェーリ教会。372. サルヴィアーティ館。373. サントノフリオ教会。374. テヴェレ川にある,凱旋橋[ネロ橋]と誤って呼ばれている後世に建てられたいくつかの壁体の遺構〔実際は古代の橋。現在のヴィットリオ・エマヌエーレ橋のすぐそばにこの橋脚の残骸が見える。4世紀の地誌カタログではこの橋は言及されておらず,コンスタンティヌス帝の時代以前に破壊されたと推測される〕。これらの遺構は,当時,水車小屋の粉引き場として使われていた。『カンプス・マルティウス』図版45〔に示した〕。375. ハドリアヌス帝〔在117年-138年〕の墓廟の遺跡で,現在のサンタンジェロ城。同帝により作られ,その際に隣接する橋も作られた。『ローマの古代遺跡』第4巻,図版4から12〔に示した〕。376. サント・スピリト教会。377. サンタ・マリア・デッラ・トラスポンティーナ教会。378. ジロード館[トルロニア館]。379. チェージ館。380. サン・ロレンツォ・イン・ピッシーブス教会[サン・ロレンツォ・イン・ボルゴ教会]。381. サントゥッフィツィオ館〔教皇庁,検邪聖省の館〕。382. ヴァティカンの教皇庁。383. サン・ピエトロ神学校。384. サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。385. 貨幣を鋳造する場所,造幣所。386. 教皇の白パン製造所。教皇によって新たにトラステヴェレ周辺地域全体が建設された。ポポロ門《フラミニウス門》を出て,モッレ橋《ムルウィウス橋》[ミルヴィオ橋]33の方へ戻られたし。387. マルクス・アエミリウス・スカウルスの橋,あるいはモッレ橋。教皇ニコラウス5世〔在1447年-1455年〕によって修復された。388. 古代の墓地の遺跡。389. 390. 古代のフラミニア街道の石畳の遺構。391. ヴィッラ・ブッカルディーニのそばの,某C・トゥティカヌスのモニュメントの遺跡で,それはその銘文から明らかである。392. マルクス・ユニウス・サビニアヌス〔第155代執政官〕のモニュメントの遺跡で,それはローマから来ると右手にあるのブッカルディーニ荘の手前の,プッブリカ通りの壁体に掲示された銘文から推論される。393. 今では崩壊しているファビアーノ橋《ファブリアヌス橋》の場所。その上からカンプス・マルティウスの大地図に示した一連の建造物が見える。394. 古代の他の墓地の遺構。395. テヴェレ河岸にある古代に作られた控え壁の遺構。396. 菜園の丘から流れる小川。かつては合流してペトロニア川をなしていたが,それはカンプス・マルティウスの大平面図において示されている。397. 快適さのために作られた古代のポルティクスの遺構。398. マドンナ・デル・ポポロ教会。続く番号は,巨大建造物の花崗岩の円柱を示し,家々の貯蔵庫においてそれらが地面に横たわっているのを見ることができる。399. 9パルミある大きな花崗岩の円柱で,アゴニザンティ・ア・パスクィーノ教会そばのクリスタルガラス職人と靴職人の貯蔵庫において見ることができる。400. 花崗岩の円柱で,サンタドリアーノ教会34とサン・ロレンツォ・イン・ミランダ教会の間にある木工農耕具職人の貯蔵庫に見ることができる。401. トラヤヌス帝のフォルムの遺構の別の花崗岩の円柱で,スピリト・サント修道院の向かいの商店の貯蔵庫にある。402. 地面に横たわる記念柱35だが,かつてはアントニヌス・ピウス帝〔在138年-161年〕の神格化が描かれた基壇の上に立っていた。モンテチトーリオ宮に見ることができる。−−−−−−−178. タルペイア36の崖の岩中に掘削された牢獄で,ロボレ37と呼ばれ,アンクス・マルキウス王〔伝承上の在位前640年-616年〕によって掘られ,セルウィウス・トゥッリウス王〔伝承上の在位前578年-534年〕によって拡張されたが,誤ってファヴィッサ〔地下祭室あるいは貢物貯蔵室〕と呼ばれている。そこでは大きな石で組まれた角柱が見え,ヴォールト天井においてそれらのうちの1つの傍には四角い穴が見えるが,そこから物が中へ投げ込まれたのであった。別の角柱の脇には,現代人が岩に垂直に開けた穴があり,そこで〔部屋を〕暖めるための床下暖房空間が作られていたことを発見された。『カンプス・マルティウス』図版26参照のこと。この牢獄は,シラクーサの僣主デュオニュシオスの牢獄38と同じくらい恐ろしいものであった。現状では,モンタナーラ広場のブファラ小路にある宿屋への2つの入口から入る。牢獄におけるこれら入口の一方の扉は,古代の壁体を残していた。岩の外側には上述の2人の王によって作られた建物の遺構がいくつかある。つまりこの岩は,この地点まで迫ったフォルム・ロマヌムに近接し,上に建てられた建物の基礎のようなものであった。前述のロボレの前には,クラウディウス・アッピウスによって新しい牢獄の建物が拡張された。そしてフォルム・ホリトリウム39で使うために反対側にはポルティクスが拡張され,それゆえ俗に百人官40法廷の〔ポルティクス〕と呼ばれていた。今日これら大きな遺構は,部分部分がトラヴァーチンの柱状の構造物,壁体,この牢獄の小部屋のレンガでできた角柱から構成されている。これらの遺構は上述の宿屋,泉の宿屋,家や商店,貯蔵庫のところから始まってマルケッルス劇場の向かい側にどれも位置している石鹸製造業者の店や公証人事務所の辺りまで見ることができる。というわけで(他の古代の著述家達からも知られるように)ロボレは当初から言われてきたように,クラウディウスの牢獄の建物の裏手,タルペイヤの岩に掘られたのである。加えてプリニウス41も前述の劇場の向かい側にこの建物があったと私達に証言している。

版画銘文・版刻文1の訳注:ネグローニ荘とは,現チンクエチェント広場に建っていた建物であり,もともとモンタルト荘と呼ばれていた館を枢機卿ネグローニが購入したことからネグローニ荘と呼ばれた。ノウァトゥスの浴場は,現在もサンタ・プデンツィアーナ教会の地下に見ることができるが,そこは言い伝えでは,ローマの元老院議員であったクィントゥス・コルネリウス・プデンスを輩出した家族の家があったとされる。プデンスとその妻プリシッラは,使徒ペテロのローマ滞在の際に彼らの家にペテロを住まわせ,キリスト教徒になったと伝えられる。その孫であるノウァトゥスとティモテウスの兄弟とプデンティアナとプラクセデスの姉妹もキリスト教徒であり,彼らが父の家があった場所にこの私有浴場施設を建てたと考えられたことから,ノウァトゥスの浴場あるいはティモテウスの浴場と呼ばれるようになった。浴場は2世紀半ば以降のもので,4世紀に浴場の北東ホールが教会堂へと代えられた。Giovanni Bartolomeo Marliano [Marliani] ジョヴァンニ・バルトロメオ・マルリアーノ〔あるいはマルリアーニ〕(1488年生-1566年没)は,イタリアの古物研究家で,パドヴァ大学に在学中,後に枢機卿となるジョヴァンニ・モローネと知り合う。マルリアーノ自身教皇の親族で,サン・ピエトロ騎士団の騎士にもなった。ローマの法律,歴史,地誌,貨幣等について著作を残したが,その中でも最も意義深いのは,1534年出版のローマの考古学的ガイドブックであったTopographia antiquae Romaeであった。1538年にはその梗概が,1544年にはフランスのフランシス1世に献上した木版による図版付きの改訂版が,Urbis Romae topographiaとして出版され,平面,立面,断面図などによって古代のモニュメントの再構成を試みた。フォルム・ロマヌムで発見された碑文などを最初に出版した人物でもある。アルドブランディーニ家 : フィレンツェの貴族であったが,16世紀以降ローマに定住。この円柱はダキア人に対するトラヤヌス帝の勝利(101年から103年と107年から108年)を記念しており,トールスから柱頭までは約30m(100ピエディ),全体の高さは約40で,ダキア戦争の場面を描いた螺旋状の見事な帯状装飾で飾られている。頂上にはトラヤヌス帝の彫像があったが,1587年に聖ペテロの彫像に置き換えられた。キルクス・フラミニウスは,カンプス・マルティウスの南側に位置し,前221年にフラミニウス・ネポスによって建てられた。4世紀においても,まだ建っていたという記録が残っている。中世にはナヴォーナ広場にあたるドミティアヌス帝のスタディウムと混同されていたが,16世紀からはボッテーゲ・オスクーレ通りVia delle Botteghe Oscureに沿ったパガニカ広場にあった"Castrum Aureum"として知られる遺構と同一視されるようになった。以降長いことパガニカ広場とマルガナ広場の間辺りに位置していたと考えられていたが,3世紀に遡るとされる大理石製のローマの都市地図断片,フォルマ・ウルビス・ロマエFURや発掘の成果によれば,ポルティクス・オクタウィアエ[オクタウィア回廊]とテヴェレ川の間に位置していたと考えられている。 San Girolamo Emilianiサン・ジローラモ・エミリアーニ(1481年-1537年)は,ベルガモ県の小村ソマスカに生まれた。アウグスティヌスの会則を守るこの同信会は,孤児らへ教育と就職の機会を与えることを主目的として1534年に創設され,1567年に公認された。 現在建物の一部を国務院が占めているこの建物は,1548年から1550年頃に建てられ,ファサードと中庭に見られる見事なストゥッコ細工と彫像による装飾で際立っている。1階には遠近法を駆使した通廊があり,フランチェスコ・ボッロミーニはわずか9mの空間を大きく見せた。 この古代の遺跡のあった地域は,1150年にオルシーニ家の所有となり,彼らは当初要塞のような役割の建物を建てた。現在の館は15世紀に教皇エウゲニウス4世の甥,枢機卿フランチェスコ・コンドゥルメールによって建てられ,オルシーニ家に譲渡された。17世紀にその館をサヴォイア家のピオが購入し,カミッロ・アルクッチのデザインによってファサードが作り替えられ,絵画コレクションを蔵していた。その一部は教皇ベネディクトゥス14世によってカピトリーニ博物館へ移された。19世紀になって銀行家のリゲッティが館の新しい所有者になった。彼は現在ヴァティカン博物館に展示されているヘラクレスの彫像,「リゲッティのヘラクレス」を1864年に発見したことでも有名である。2つの噴水で美しく飾られている同名の広場に正面が面している。そのファサードの一番上には,ファルネーゼ家の象徴である百合で飾られた見事なコーニスがある。現在はフランス大使館が置かれているこの建物は,1517年にアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネが枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼのために着工した。彼は正面部分を作り,その後ミケランジェロ(コーニスとファサードのバルコニー部分)とジャコモ.デッラ.ポルタが引き継ぎ,テヴェレ川に向いた外観を作った。 ピラネージはサンタ・マリア・イン・ヴィア・ラータ教会の地下にある古代遺跡をサエプタ・ユリアと考えているが,現在サエプタ・ユリアと見なされている遺構はパンテオンの東側面に南北に残っており,場所が異なる。1904年から1905年,1964年に行われた発掘から,上記の教会の地下に残るのはハドリアヌス帝時代と3世紀に遡る他の建物の遺構と考えられている。この建物は,18世紀以降長大なギャラリーにその絵画コレクションを展示しており,現在もその一族が暮らしながらも館の一部を美術館として公開している。アルドブランディーニ家とドーリア家が姻戚関係を結び,増改築を重ねたことで現在のような巨大な館が形成された。コルソ通りに面した建物のファサードは,ガブリエーレ・ヴァルヴァッソーリによって1731年から1734年に作られた。 アウレリアヌス帝により,271年に建設されたローマの市街地全域を取り囲んだ市壁のこと。 三位一体修道会は,12世紀末にマスの聖ヨハネとヴァロワの聖フェリクスによってセルフロワで設立され,1198年に教皇インノケンティウス3世によって承認された。厳格なアウグスティヌス会則を守り,聖三位一体に特別な崇敬を寄せる。修道士達は横軸が青,縦軸が赤の十字架をシンボルとした白い僧衣を着る。 アグリッパが作ったパンテオンは,後にハドリアヌス帝が作り替えたパンテオン(現存する円堂形式の神殿)の正面列柱部分にあったことが,部分的発掘によって確認されている。長いこと現存するパンテオンがアグリッパによるものと考えられていたのは,その碑文に先人の功績を称えて「アグリッパが建造」と記されていたからであり,200年頃ローマで活躍したディオ・カシウスの記述もそのように解し,広く受け入れられていたからである。プリニウスの『博物誌』XXXVI. IV. 38参照のこと。実際は1815年以前にこの両シチリア王国という国名は,正式なものではなかった。ガイウス・サッルスティウス.クリスプス(前86年-34年頃)は,カエサルの友人にしてローマの政治家,歴史家であり,ローマに広大な庭園を所有していた。彼がピンキウス丘に造った庭園は,ティベリウス帝の時から皇帝所有となり,4世紀においても使われ,410年にはゴート族のローマ略奪にあっている。この領域では多くの芸術作品や建物の遺構が見つかっている。 カルメル修道会は,伝説では聖ベルトルドが1155年にパレスティナのカルメル山に小さな礼拝堂を隠遁者達と作ったことから始まったとされる。16世紀半ばに2人のスペイン人,アヴィラの聖テレーザと十字架の聖ヨハネがより厳しい会則へと改革を行い,裸足のカルメル修道会と呼ばれるようになった。 紀元前390年にガリア人がローマに侵入した際に,多くの女達がロープを作るために髪を切り落としたと伝えられており,その歴史的な献身を記念するために,禿頭のウェヌス神殿が建てられたとされる。 1625年にカルロ・マデルノが着工し,都市における貴族の邸宅の形態を広々とした緑の空間をもつ別邸の形態に融合させた。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが後を引き継ぎ,1633年に完成させた。フランチェスコ・ボッロミーニは,ファサード右側の螺旋階段を設計した。現在国立古典美術館である。 この施設は,16世紀の末にナザレの大司教ミケランジェロ・トンティによって設立され,1689年からトンティ館が活動拠点となっている。1617年にローマで設立された貧しい子弟の教育に当たるスクオーレ・ピーエ修道会によって,貧しい若者達への寄宿学校に改変された。このコンティ館とは,コンティ家の一族であるポーリ公爵の館のことで,トレヴィの泉の彫像群が配されている側,つまりすぐ北側に位置している。このエウロパのポルティクスは,彫刻か絵画によって「エウロパの掠奪」が描かれていたところだとされている。その作品が展示されていた場所として,そこがポルティクスとして考えられてきた。しかしラテン詩人,Marcus Valerius Martialis マルクス・ウァレリウス・マルティアリスによる言及では,ポルティクスそのものの存在は明確にされず,ツゲの石垣からなる草木で覆われた場所のようであり,庭園あるいは庭園を伴う建物を指すようである。その建物があった場所に燗する仮説は様々あるが,サエプタの辺りだったのではないかという説が有力である。高さ約30m(100ピエディ)の180年から193年に建立された,28の円筒形大理石で出来た記念柱。建立数年前にマルコマンニ族とサルマタエ族,クワディ族に対してアウレリウス帝が納めた勝利が螺旋状の帯状装飾に刻まれている。頂上に1588年から1589年に設置された聖パウロのブロンズ像が設置されている。このクィリヌスのポルティクスは,ラテン詩人,Marcus Valerius Martialis マルクス・ウァレリウス・マルティアリスによってのみ伝えられている,サビニ系の神でマルスおよびロムルスと同一視されたクィリヌスの神殿の周囲にあった列柱廊のある大きな広場を指すと考えられている。おそらくこの神殿とポルティクスは,かつてクィリナリス門があった,クァットロ・フォンターネ通りのすぐ東側の辺りにあったようである。スタティリウス・タウルスの円形闘技場はピラネージの指摘とは異なり,現モンテチェンチ界隈にあったと考えられている。 1653年に教皇インノケンティウス10世の命で,ジャン・ロレンツォ・ベルニーニに委託され,凸状のファサードを制作した。1694年にそこに裁判所(インノケンティウスのクリア)を設置するという教皇インノケンティウス12世の意向を受けて,カルロ・フォンターナが完成させ,1871年には下院の拠点に選ばれた。オットボーニ館は,フィアーノ公オットボーニ家の名をとったもので,フィアーノ館とも呼ばれる。サン・ロレンツォ.イン.ルチーナ教会を取り囲むように,1280年代まで遡り,当初はその教会の名義枢機卿の住居として建てられたが,1624年にミケーレ・ペレッティ殿下の手に渡り,その後オットボーニ家の所有となり,1898年にはアルマジャ家の手に渡った。オットボーニ家は枢機卿ピエトロ・オットボーニを1689年,79才の時に教皇アレクサンドロス8世として輩出したが,彼は15ヶ月で亡くなってしまった。クレメンティーノ神学校は,教皇クレメンス8世によって1595年にこの地区に多いスラボニア(スラブ)人の若者の教育のために設立された。この旧サン・コジマート修道院教会は,現在はヌオーヴォ・レジーナ・マルゲリータ病院となっている。かつてはベネディクト修道会の修道院であり,その起源は10世紀半ばまで遡る。病人治癒の守護聖人である聖コスマスと聖ダミアヌス,そして聖ベネディクトゥス,聖エメレンティアナの名を冠した教会は1069年に献堂された。おそらく第一の回廊が作られたとされる1246年の後,1475年-1485年には教皇シクストゥス4世が新しい第二の回廊を作る際に第一回廊も改修した。1891年に病院として使われはじめた。この森は,ジャニコロの丘《ヤニクルム丘》の麓に位置し,アルカディア派と呼ばれる文学アカデミーの活動拠点として1725年から用いられた。パッラージアは,理想郷とみなされたアルカディアの町の名前である。アルカディア派は,スウェーデン女王クリスティナ(1629年生-1689年没)を創設の後援者として1690年に結成され,ピラネージもその一員であり,サルチンディオ・ティセイオSalcindio Tiseioのペンネームを用いていた。ムルウィウス橋は,前3世紀に木造の橋として架けられており,前2世紀にケンソル(検閲官)のマルクス・アエミリウス・スカウルスによリ凝灰岩で再建され,15世紀に教皇ニコラウス5世により監視塔が付加された。そして教皇ピウス7世により,ヴァラディエの設計(1805年)に基づき,城門型に姿を変えられた。この橋を有名にしたのは,312年10月28日にこの付近で行われた有名なコンスタンティヌス帝とマクセンティウス帝の戦いのためである。最終的にキリストの徴に導かれたと伝えられるコンスタンティヌス帝が勝利し,その後のキリスト教を国教とするローマ帝国の歴史のきっかけとなった戦いである。サンタドリアーノ教会は,教皇ホノリウス1世〔在625年-638年〕がクリア・ユリアを改修してニコメディアの殉教聖者ハドリアヌスに献じた教会で,ムッソリーニ時代の1937年にクリア・ユリアを復元するために教会に関する部分は撤去された。赤色花崗岩で一本石のこの記念柱は,14.75mあり,1703年に発掘された。1705年にモンテチトーリオ広場ヘと運ばれ,1764年までそこに置かれていた。記念柱を納めていた小屋が火事になり,柱身がひどく破損し,記念柱を再び直立させる計画は頓挫した。その赤色花崗岩は,モンテチトーリオ広場に建つオベリスクの修復に用いられ,基壇は現在ヴァティカン博物館に所蔵されている。カピトリヌス丘にあり,ここから国事犯を突き落とした。 ロブルRoburと呼ばれ,セルウィウス・トゥッリウス〔伝承による在位前578年-534年〕によって建てられたローマの牢獄のより低く,強固な部分を指す。シラクーザの僭王,デュオニュシオスは,猜疑心が強く,反逆者や政敵を採石場跡の石牢に閉じ込めた。その円天井はいかなる音や声をもよく反響し,「デュオニュシオスの耳」と呼ばれる秘密の場所に届くように考案されており,ここで彼は囚人達の不平や思案を聞き取ることができたといわれている。フォルム・ホリトリウムは,テヴェレ川とカピトリヌス丘西側の間のセルウィウスの市壁の外に位置する青物市場であった。105名(帝政期には180名)で構成される裁判官(判事)の団体。 プリニウスの『博物誌』VII. LX 参照のこと。

Volume/巻番号:16

Plate/葉番号:4

Kamei Collection Number/亀井文庫番号:685

Firmin-Didot Number/Firmin-Didotレゾネ番号:685

Negative Film Number/ネガ記載番号:16004

Image Number/画像シリアル番号:826

Plate Size/プレート実寸:197X706

Calcografia volume number/Calcografia巻番号:SEDICESIMO

Calcografia Number/Calcografiaレゾネ番号:685

H.Focillon Number/H.Focillonレゾネ番号:719,600

H.Focillon's description:600. c) Pl. de text, sur 9 colonnes. -- H. 0.20, L. 0.715. 719. (2) Place ordinaire du plan de Rome et du Champ de Mars. V. Deuxième partie, J.)

H.Focillon記述 [H.Focillon's description]:600。C) 9列にわたるテキストの図版。−高さ0.20,長さ0.715。719。 (2) ローマおよびカンプス・マルティウスの地図の一般的な場所。第二部のJを参照。

J.W.Ely Number/J.W.Elyレゾネ番号:1008

J.W.Ely's Title:Plan of Rome and the Campus Martius. (text)

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